クズホストさとるくんと黒服恵の話(仮題)

「てめぇ、今まで貢いだ金返せよ!」
 ツインテールの女が発狂する目の前で、五条悟はどこか冷静だった。女の体にこれでもかというほどこびりついたシナモロールの塊が、ぷるぷる揺れている。彼女曰く、これは今流行りの「病み系ファッション」で、「さとるをイメージしていっしょうけんめいかんがえた」代物らしい。気色悪ぃ。尚もわめき続ける女に気付いたヘルプたちが、気づかわし気に周囲に寄ってきた。
 いつまでもドブの匂いが染みついて離れない街、歌舞伎町。その一角に五条の職場はあった。店頭ディスプレイが今日もやかましく、五条をパンダにして客を寄せている。
《カブキでこの男に叶うヤツはいない、No.1ホスト、さとる!》
 浴びるほど酒を飲み、女を手玉に取って、骨の髄まで金を毟り取る。騒々しく馬鹿らしく、そしてどこまでも空虚な、それが五条悟の仕事だった。

 どこでどう間違ったんだかな。五条は内心ため息をついた。厳格かつ資産家の家にほとほと呆れて出奔、路頭に迷っていたところを、怪しげな女社長の冥さんに拾ってもらって、あっという間にホストクラブに入店、真面目に仕事して、今に至る。そうだ、別に、俺は仕事してただけだ。五条は自分に言い聞かせた。
 目の前のこいつは、最初はどこにでもいる芋っぽい細客だった。でもうまく育てたら良い客になるんじゃないかって、丁寧な接客でちやほやもてなしてやってたら「こう」だ。だって、この世間知らずで哀れな女は、俺の「親が亡くなって、大学の通学費が足りなくなりそうだからホスト始めたんだ」という適当な出まかせをコロッと信じたのだ。いや、出まかせなんかじゃない。嘘は言っていないんだから。親は実際には死んでいないが俺は家出中なわけで、あいつらは実質死んでいるのと同じことだ。ホストの売上を大学の通学費にしているのはその通りだし。1年前から休学中だけど。そんなこんなでこいつの財布の紐が緩んできて、ここに通う頻度も上がってきたところで、「風俗ってお金稼げるらしいよ」なんて「アドバイス」をしたら、「さとるにいっしょうけんめい」なこのアホ女は見事風俗嬢となり、心身を酷使して無限に金を稼ぐ、俺の言いなりのATMになった。はずだった。

「おい聞いてんのか⁉ 最近いっつもそうじゃん。ほんとさ、客ナメてんの?」
 俺の隣で喚く女の罵声はヒートアップしていく。聞いてるよ、ごめんね、そんなことないよ。猫なで声だけは口から滑り落ちていくけれど、誠意がこもるはずもなく。アルコールに過剰滅菌された肝臓では、脳に十分な栄養素を送る役割は最早果たせていないのだから。
「ウチと結婚するからもうホスト上がるってお前が言ってから、もう3か月経ったよね⁉ 他の女なんかとLINEすんなって、ずーーーーっとゆってるじゃん‼ ねぇ、そうだよね?」
 五条は、表向き「いいや、そんなこと言ってないよ」と穏やかになだめつつ、心の内ではンなこと言ってねぇよバーカ、と毒づいた。いや、どうだったっけ。ここの営業後に行ったラブホかなんかで、言ったっけ。言ったかもしれないけど、いや、やっぱり言ってないから。お前と結婚したいって? ないない。お前のギッタギタの醜い顔に誓って、ない。営業文句に決まってんだろ。他の女とLINEすんなって、そんなん無理に決まってる。俺、ホストだっての。
 家という厳格な環境を抜け出して最初のうちは、ホストという職を結構楽しんではずだった。酒飲んで、客の話聞いて、客が帰る時には笑顔になってて、俺は対価に金をもらう。こういうのも案外、悪くないじゃん、なんて思っていたのに。
「お前、さっきからぜんっぜん、うわの空だよな⁉ もう知らないからっ、その面二度と拝めなくしてやるっ、ふざけんなっ、‼ ほんと、」
 いつの間に、女は卓上のシャンパン瓶を握りしめて立ち上がっていた。30万の。俺、殴られるのかな? 瓶で。周囲がざわめいた気がしたけど、アルコールに侵された脳では状況の正確な判断なんて、とうにできやしなかった。もうどうでも良かった。彼女の気を静めよう、と席から立ち上がる気力が全くわかなかった。
 本当に、どこで間違ったんだろう。最近、心にじっとり、煙草の焼き印をじわりと押されたような、そんな気持ちがくすぶって消えない。ばしゃっ、と水音がして、反射的に目を閉じた。
「え、」
 客がぶっかけた酒を被ったと思ったのに、いつまで経ってもその感触は来なかった。恐る恐る瞳を開ける。
 一人の青年。
 彼が、女から身を挺して俺を庇っていた。一瞬の出来事だった。
「あ……」
「暴力はおやめください」
 青年のその一声で、水を打ったように場が静まり、その瞬間から周囲の連中も女の確保に動いた。女は瓶という武器を奪われ、片腕ずつ拘束されて、あっという間に店の外に連れ出されていく。店内での暴力行為はご法度だ。あいつは最近、こうした迷惑行為が続いていたし、もしかするとこのまま警察に連行されるかもしれない。
 突然のことで呆然としたけれど、すぐに、目の前の青年に目が行った。スーツを着用した青年。「黒服」と言って、ホストの接客をサポートする、店の裏方の従業員だ。酒を頭から被ったと見えて、べしょべしょだった。咄嗟に、持っていたハンカチを手渡す。
「ここ、座りな」
「ああ、ありがとうございます」
 俺の案内に従って隣に座った青年は、受け取ったハンカチで遠慮がちに顔を拭き始めた。いや、そうだ、この子の名前、「恵」だ。バイトの。バイトの連中の名前なんて中々覚えないけど、彼の名は女の子みたいで特徴があったから、なんとなく知っていた。
「いや、感謝するのこっちだから。ありがと」
「酒瓶飛んできたらガチでやばいと思ったんで。顔に傷でも付いたら、まずいでしょ」
「そりゃ、そうだけど」
「アンタここの稼ぎ頭なんだから」
「恵ってバイトでしょ? そこまで体張る必要ないって」
「……知ってたんですか、俺のこと」
 恵は、非常に驚いた様子だった。そんなに驚く?
「名前に特徴あったから、ちょっと覚えてた」
と素直に伝えると、ああ、と納得した様子だった。
 丁度、あの女以外には客のいない瞬間で暇だったから、何とはなしに恵を観察した。ツンツン跳ねている髪の毛、そこそこ上背のある体つき。かなり整った顔してるけど表情は固くて、ホストじゃ儲かんないかも、なんて思った。小ぶりな時計を左手首に身に着けている他は、店の制服のスーツを着用しているのみで、でもそれが彼の生真面目さを引き立たせるようだった。ウン百万のアクセをじゃらじゃら身に着けた、俺のだらしないファッションとは大違いだ。
 そのうち、彼の仲間の黒服がやってきた。仕事に戻れとのことらしい。もうちょっとゆっくりしていけばいいのに、あんなトラブルがあったんだから。
「あ……」
 去り際、恵が少し慌てた様子でこちらを見てきた。
「何?」
「ハンカチ、……今度洗って返します」
 ありがとうございました、と言って、席を立った恵の、その顔が。さっきまであんなに頑なだったのに、軽く微笑んだ、その自然な表情のゆるみが、とっても眩しくて、俺は少し動揺したのだった。