外堀を埋める話

「まぁーた来週京都だよ。さっさと帰ってきて結婚相手決めろって」
「見合い話で本家から呼び出されるの、高専時代からずっとだろ。いつものことじゃないか」
 結婚。職員室内から漏れ聞こえた一言に、閉じた入口をノックしかけた手を止める。五条と、家入校医だ。さっさとノート提出して帰りたかったのに。長い廊下には西日が差すばかりで、他に人影はない。伏黒の胸はとくんと鳴った。ーーしばらくここで聞いていても、誰にもばれないだろうか。
「最近あっちもうるさくてさ。そろそろ真面目に身を固めろ、だと。婚約者、よりどりみどりだよ。キャバクラ開けそう」
 相変わらずデリカシーのない発言をする五条ももう二十八だ。縁組をしろと圧力がかかるのも至極当然と言える。なにしろ、呪術師の一寸先は死。五条の血を継ぐ子を成したいと本家が結婚を急くのも道理だろう。
「お前、いつまでのらくらしてるつもりなんだ。どの道、結婚はしなければいけないんだろう」
 すると五条は、あっけらかんとこう言った。
「もう心に決めちゃった人、いるし」
 間。本当に? と訝しんだ問いに、凛とした答えが返ってくる。
「うん、いる。だから今度の本家の見合いも全部断るためだけに行くの」
 伏黒は、はく、と口で僅かに息を吸って、なんとか呼吸を繋いだ。初耳だ。いつの間に、そんな人が。
 とうとうこの日が来た。覚悟は、していたけれど。伏黒は、五条のことが好きだ。
 勘違いだと思いたかった。けれど、稽古のあとに頭をなでてくれる分厚い手とか、一人の時は冗談みたいに長い足でずんずん人を追い越すくせに、自分と一緒に歩くときは歩調を合わせてくれるところとか、倒れた津美紀の病室に当たり前のように見舞いに来てくれるところとか。ともに過ごす年月が長くなればなるほど、五条を愛おしいと思う気持ちは募るばかりだった。
 五条家の嫡男で、この世で最強の特級呪術師。世継ぎを残すのは必然の義務だろう。伏黒とは生きている世界が違う。釣り合いがとれないどころの話ではなかった。問題を挙げればきりがない。どう足掻いても縮まらない年の差。自分は幼少期に離れたとはいえ、五条家と禪院家、因縁の術式を持つ者同士。男と、男。伏黒は、自身は呪術界改革を目指す五条の戦力の一つにすぎず、その術式の力を見込まれたからこそ今日まで彼の庇護下に置かれているとちゃんと理解している。そんなただの駒から寄せられた恋慕なんて、ーーいや、あの人なら、「あっそ。僕、男色の趣味はないんだよね。ごめーん!」くらいで済ませそうだけど。そんなもの、彼の計画には邪魔で面倒という他ないだろう。何より、なんだかんだ恩人である五条に、ろくでもない噂話なんかで、これ以上迷惑をかけたくなかった。
 だから、隠すことにした。自分の墓まで持っていくことにした。仏頂面にだけは自信がある。ーーこの厄介な恋心を何度も殺そうとしたけれど、殺そうとするたびに、五条が伏黒のコーヒーを間違って飲んだときの渋い顔や、サングラスの奥に垣間見える空色の瞳が脳裏をちらつく。無理だった。「驚いたな。今はお付き合いの最中か?」
「いや、まだ恋人じゃない。今外堀埋めてる最中」
「出会って五秒でベッドインを主義にしていたお前が、外堀ね」
「ちょっ、家入先生、昼間の学校でそういう発言はどうかと思いますわよ」
 ふざけた口調で慌て出す五条を、家入は一蹴する。
「うるさい。高専卒業したあたりはひどかったじゃないか」
 伏黒にも覚えがある。何の気まぐれか面倒を見てくれるようになった五条は、時折、首元やら手首やらにこれ見よがしな鬱血痕を付け、うつろな瞳で伏黒家を訪ねてくることがあった。ある時、あまりの女物の香水の匂いに、伏黒は吐いてしまったのだーー小学校中学年だったか。この最悪の恋心を自覚したのも、その時期。五条が好きなのは男ではなく女性だと分かっていながら、それでも好きになってしまった。あの頃からずっとこじらせてるのか。自嘲に、口が歪む。
「しっかし、お前の口から『心に決めた人』なんて言葉が飛び出すとはね。よっぽどできた人なんだろうが、哀れだ」
「GⅬGに愛されるなんてめったにない幸運だよ? どこに哀れむ要素があるんだか」
「こんなテキトーで粗野な八方美人に引っかかることのどこが幸せだっていうんだ。お前、どうせ自覚ないんだろう」
「ひどくない? ……まあ、本当によくできた子だけどさ。優しいし、かわいいし。態度が素直でわかりやすいの、たまんないんだよね」
 視界が滲む。優しくて、かわいくて、素直。俺と全然違う。俺は愛想は悪いし、五条さんから事あるごとにもらう人物評価は、昔から決まって「かわいくねー」だ。素直だったことなんか一度もない。胸中を隠すのに必死で、いつも口答えか素っ気ない対応ばかり。
 五条先生に愛する人ができて、彼は家庭を持って、幸せに暮らす。その時には、彼を心の底から祝福して、五条からはしばらく物理的に距離を置く、と決めていた。こんな複雑な事情を抱えるガキが、いつまでも五条の脛をかじっていていいはずがない。五条どころか、相手にまで迷惑をかけることになる。だから、離れる。独り立ちにはいい機会だ。
 そう決めているのに、いざ五条の口から大切な人の存在を告げられて、なぜ視界がぐらつくのか。自分の意思の弱さに辟易する。もう小学生ではない。伏黒は最早、二級の呪術師だ。唇をぐっと噛む。涙を堪えるのは結構得意だと思っていたのに。
「ただ、心を開くまでにちょーっと時間かかりそう。絶対僕のこと好きなのに」
「百戦錬磨のお前を手こずらせるとはな。ざまあみろだ」
「余計なお世話だ。……ていうか、恵、さっきからそこにいるよね。入ってきていいんだよ」
 突然名を呼ばれて、肝が冷える。さっさと入らないと不自然だ。目の端に残る滴を袖で雑に拭って、失礼します、と扉を開ける。古い木製の扉がギィ、ときしんだ音を立てる。大した厚さもないはずなのに、ひどく重く感じた。
「……気付いてんなら早く言ってくださいよ」
 五条と家入のいる机に歩み寄る。五条は、いつものアイマスクを外していた。この人、こんなしょうもないことに六眼使ったな。気付くわけだ。
「ごめんごめん、で、用事は何」
「課題提出しに来ました。これです」
 手に持っていたノートを渡す。ありがとうね、と受け取った瞬間、五条はぐい、と手にしたノートを自身に引き寄せた。ノートを離すのが一瞬遅れ、伏黒は前のめりになる。
「何ですか。つまらないいじわるすんなって何回言ったら」
「ね、さっきの話聞いてたんでしょ。どう思った?」
 は、と息が詰まる。俺に、今、それを訊くのかよ。眼前すぐには空色の双眸。こんなときですら、それに目を奪われてしまう自分が、どうしようもなく忌々しい。
「別に、何も。お相手と、何か進展あるといいですね」
 声は震えなかった。多分。
「ふうん。応援してくれるの。ーー恵はさ、好きな人いるの?」
 家入が、おい、と窘めているが、おそらく五条に効果はない。答えない限り、何度でも同じ質問をしてくるだろう。この男は星の王子さまよりたちが悪いことを、経験則上知っている。自分の狼狽をも見抜くのではないかというほどの鋭い視線に耐えられなくなって、ついに伏黒は目をそらした。
「いませんよ。あんたに関係ないでしょ、そんなこと」
 今日も棘のある発言しかできない。本心に嘘を塗り重ねて、努めて平静を保った。さっさと解放してほしいのに、五条はじっとこちらを見つめたまま、たっぷり一分間口を開かない。伏黒はしびれを切らした。
「……これで満足ですか」
「うん、恵、そろそろノートから手、離してくれるかな」
 言われて気付いた。自分がノートをずっと掴んでいたせいで、五条とずっと綱引き状態だったらしい。なぜこの男はさっさと言わないのか。家入先生の前でもあるのに。すみません、と慌てて手を離す。
 失礼しました、と伏黒は職員室から去る。すぐさま自分の部屋に戻って、乱暴に鍵を閉め、そしてベッドに飛び込んだ。枕をぎゅうと抱きしめる。五条に、好きな人ができた。色々足りない部分は多いが、そこを補うほどの魅力溢れるあの人のことだ、すぐにでも色よい報告が舞い込んでくるだろう。そのときには、心の底から彼の門出を祝えるように、なっていたい。喜ばしいことじゃないか。ーー今だけは、ただ、一人にさせてほしかった。ぐちゃぐちゃだ。泣く権利すらもともとない、のに。窒息するのではないかというほど枕に顔を押し付けて、嗚咽を辛うじて殺した。
 さて、職員室である。
「なあ、私は今何を見せられたんだ」
「何って、外堀を埋めてたんだけど」
 五条は再びアイマスクを目元まで引き上げる。弧を描く端正な口元に、学生時代からの腐れ縁である家入はうんざりといった様子で溜息をついた。
「恵、目元赤くなってたなあ。どうせ『自分には悟さんの恋人になる資格なんてない、失恋した』ってつまんないことばっかり考えてんだよ」
「問題はそこじゃないだろう。生徒だぞ。しかも長年面倒見てきた子ども」
「ノート掴む力、赤ちゃんみたいに強かった。動揺してるのバレバレだよね、ほんとわかりやすい」
「おい、五条」
「今度の京都の予行演習にと思ってさ。あっちでも埋め立て工事だから」
 まるで聞く耳を持たない五条に、思わず声を荒げる。
「何が予行演習だ。お前、お遊びもいい加減にしろ」
「遊びだって?」
 場の空気が一瞬で凍りつく。やばい、地雷を踏んだ。
「硝子でも冗談言うことあるんだね。僕が遊びで、こんな回りくどい真似するって?」
 相変わらず口だけはにこやかだが、声がいつもより数段低い。俺が本気じゃないように見えるわけ。目の前の獣は言外にそう伝えていた。ーーいや、先ほどのを見て理解はしていたが。
 この男の六眼は、目隠しされていたって、近距離に静止している術師の位置くらいわけなく判別できることを彼女は知っている。実際あの時、彼がアイマスクを外したのは伏黒が入室するほんの直前だ。伏黒に見せるためにわざわざ、外した。
 そうだ、彼女は知っている。五条がその稀有な瞳を人前に晒す機会は二つ。一つは敵を殲滅するとき。
 そして、本気で好きな相手を口説き落とすとき。
「……好きになったから、といって、お互い素直に付き合える立場じゃないだろう。同性同士の問題は今は社会的には改善の動きもあるが、年齢差、家の問題」
「だから言ってるじゃん、外堀を埋めるって。年齢差に関しては呪術高専の人たちに理解を示してもらうことから。さっきみたいな感じでやればいいよね」
 さっきみたいなの。あんなこれ見よがしなのを他の連中の前でもやるつもりなのか。あれでいいと思ってるのか。正気か。
「家に関しては、最強の僕が黙らせる。そのために、しばらくはちょくちょく本家に出向くことになるかな」
 滅茶苦茶だ。でもそれで通ってしまうのが五条悟だった。
 こうなったらこいつを止められる術は、ない。前髪に特徴のある胡散臭い親友が生きていたら何と言っただろう。校舎を半壊にして止めただろうか。瞼の裏の旧友も困り眉を作っている。自然と胸元の煙草の箱に手が伸びた。
「はーあ、今頃恵、部屋で一人で泣いてるんだろうなあ。かわいそうに」
 わずかに潤んだ目、若干かすれた声、返答までの、隠しきれていない逡巡の間。さっきの様子を見れば、伏黒が五条にどんな思いを抱いているかなんて猿にだってわかる。昔から心配になるくらいしっかりしていたあの子が、あんな風に弱るなんて知らなかった。
「そこまで見抜いてて、放っておくのかよ」
「それ、構いに行けって言ってるようなもんだよ」
 苦笑される。うるさい。今のあの子を労われるのは、腹立たしいことにこの大男だけ。どうせこいつのことだ、強引にゴールインする結末は変わらないんだろうに、本丸を放置して悠長に外堀から攻めるというのはどういうつもりなんだか。
「だって今恵本人を追及したって、かたくなに本心と全然違うこと言われて終わりじゃん。それにーー」
「それに?」
「叶わない恋に泣く若人、って、最高に青春だよね。しばらく眺めてたくならない?」
 家入はチッ、と鋭く舌打ちをし、煙草に火をつける。確信犯かよ。ウワバミよりよっぽど質が悪い。伏黒くん、最後、きっと丸のみどころじゃすまないぞ。ぷかりと吐き出した煙は、家入の不安を反映するかのように、職員室にいつまでも漂っていた。(終)