夢見る少年・夢を見ない少年の話

(恵、逃げちゃだめ)
 渦を巻いた耳の奥、懐かしい誰かの声がする。

***

 パン、とひと際大きな音で意識が呼び戻された。無邪気な保護者が、3つのクラッカーをいっぺんに鳴らした音。赤やら銀やら青やらの色テープが四方に飛び出て、アパートの質素な一室を彩る。
「誕生日おめでとう~、僕! そして恵! ハッピークリスマース!」
 部屋の隅、小さなクリスマスツリーの頂で星が輝いた。12月、五条さんと俺の誕生日を祝うときは、クリスマス会も一緒に行うのが常だ。大きなチキンや豪勢なサラダ、数々のパンや総菜がちゃぶ台いっぱいに並べられ、その卓を五条さんと俺と二人で囲んでいる。
「豪華だねえ。全部食べ切れるかな」
 今になってようやくその懸念を始めた五条さんに、俺は軽くため息をついた。
「だから売り場で、買い過ぎじゃないかって言ったでしょう」
 当の本人は、ごめんごめん、きっと大丈夫だよ、と呑気なものだ。まあ、五条さんの食事量なら食いきれないことはないと思いたい。
「五条さん、長々歩き回るから目立ちまくったじゃないですか。なんか女の人に話しかけられてたし、……んむ」
 ふに。五条さんの人差し指が、俺の唇に指を当てた。
「めーぐみ」
 深く、艶のある声が鼓膜を震わせる。
「呼び方。――君の恋人の名前は、何て呼ぶんだっけ」
そのまま手はするりと俺の顔にそえられ、武骨な指が顎をすり、と微かに刺激した。その蒼い瞳が、簡単に俺の心を射止める。

 ああ、クソ。そんなの、ずるい。
 そう、そうだ。俺は、この人の「恋人」になったんだ。

 もう一度、指が顎を撫でる。猫をあやすような手つきは、大したことのない動作なのにじりじりと甘い。五条さんのにやりと上がる口角すら扇情的だ。顔に熱が集まるのが嫌というほどわかった。
「さ、」
「ん~?」
「悟、さん……」
 やっとのことで責務を果たす。まっすぐ俺を見つめる五条さんの碧眼には、真っ赤でみっともない顔の俺が映っている。たっぷり3秒間は見つめられたあと、彼は口の端から端まで笑顔を浮かべた。
「ふふ、ごーかく♡」
 俺の顔を引き寄せる。え、と疑問を抱く間もなく、唇と唇が触れ合った。軽いキス。
「……!」
 視線は未だ俺を離さない。五条さんは面白がるような口調で尋ねてきた。
「……ねえ、その『女の人』って、デリのところで雑談してきたおばさんでしょ。まさか、あそこで嫉妬してたの」
「し、してない!」
 思わず大きな声で反論すると、相手は一層、笑みを深めた。
「かわいいねえ」
「……嬉しくない」
「拗ねてる顔もかわいい」
「……」
 ミルクチョコレートよりも甘い声で畳み掛けられてはたまらない。うるさい、と小さく反抗して、相手を軽く小突く。
「なんたって、クリスマスイブだもんね。誰にも邪魔されたくないよね~」
 俺の本音を見事に言い当てて、五条さんは大層ご機嫌だ。認めざるを得ない、そう、嫉妬した。12月24日。今日くらい、この人を独り占めしたかったのだ。俺の反応を見てはいちいち面白がる五条さんは、ああ、もう。腹立たしい。
「あんまり、他人に隙を見せないでください」
「それ、恵が言う?」
「うるさい」
「眉間に皴が寄ってるよ~」
 そんなことを言って、五条さんの指が眉間をぐりぐりと触る。まだまだお子ちゃまだね、なんて言われているようで、その余裕がムカつく。でも、こうやってたくさんスキンシップを取ってくれるのは中々悪くないから、……困る。
 彼もようやく引き際だと悟ったようで、わしわしと俺の頭をかき乱し撫でて空気を変えた。
「よし、ご飯にしようか」
 生き物の命を頂く、手を合わせる所作。一転、五条さんは凛とした空気を纏わせる。この瞬間を共に過ごすのが、ずっと好きだった。これまでも、そしてこれからも。
「いただきます」
 そうしてようやく、俺たちはささやかなパーティーを始めた。

 五条さんと出会ってから、9年。幼いころから面倒を見てくれた恩人が今は自分の恋人だなんて、6歳の俺が聞いたら目を白黒させるに違いない。
「君らのお父さんから、君たちのこと頼まれてね」
 父も母も家から姿を消し、とうとう後のなくなった俺と姉の前に、彼は突然現れて、瞬く間に生活援助を進めていった。出会った当初彼はまだ大学生だったそうで、どこから子ども二人の生活資金を捻出しているのかと訝しんだものだ。聞けば実家が京都の大層な名家なのだという(ただし彼は家の金を頼ったことはなく、自分たちの生活資金は全て彼自身の口座でやりくりしていた)。大学卒業後は順当に実家の家業を継ぐのだろうなと思っていたら、なんと家から飛び出して東京に一人進出、今は大学の同期と共に立ち上げたベンチャー企業でバリバリ働いている。
 少しずつ少しずつ、五条さんと打ち解けていく過程で、中学に上がってすぐの頃、自分の中で膨れ上がる恋愛感情に気付いた。彼に対する尊敬、憧れ、感謝、様々な感情が、長い年月をかけて溶け合って、結局出来上がったのはどろどろと醜い性愛だ。五条さんの恋愛対象は女性であることは幼い頃にわかっていたし、早々に成就は諦めて、心の奥底にしまい込んだ。だって所詮、俺は親に捨てられたただの中学生だ。その身も心も美しい男に、自分が見合う価値があるとは到底思えなかった。そのはずなのに、五条さんは隠したはずの心をあっさり見抜いて、掬い取って、白日の下に晒してしまった。
「なんですぐ諦めちゃうかなあ、恵は。もっと欲張ってよ」
 僕も、欲張りたいから。そういって抱きしめられた感触は、明らかに保護者と被保護者の温度を超えていた。五条さんの胸は、密かに期待していた以上に優しくて、温かくそこに存在していることをその時に知った。そうして、俺も俺の幸せのために、ほんの少し欲張る覚悟を決めた。

「うーん、いっぱい食べたねえ」
「うまかったですね」
 懸念はしていたものの、難なく完食。どの総菜も良かったが、やはり何を差し置いても、油の乗った、身の柔らかいチキンが最高に美味だった。
「津美紀も来れば良かったのに。友達と遊んでるって?」
 彼女は今、全寮制の高校に通っている。先週「今年は寮の友達と一緒にクリパなの! そっちには行けないや…ごめん!」とメッセージアプリで丁寧に連絡を入れてきたのだった。
「仕方ないですよ。わざわざ野郎2人と顔突き合わせるだけのクリスマスなんかのために外泊するわけないでしょ」
 それはそうね、と五条さんは苦笑する。正月には帰ってくるらしいです、と伝えると、じゃあおせちは一緒に食べられそうだ、と安堵した様子だ。五条さんは今年も実家に、大変煌びやかな三段重を送らせるつもりらしい。
「高校生活について、色々聞くといいんじゃない」
「ッスね」
「恵も来年は高校生かあ」
 嘆息する声。俺は思わず、勉強机の上に積まれた教材にちらりと目をやった。
「まあ、受かればいいんですけど」
「受かるよ~、ずっと頑張って勉強してんじゃん」
 五条さんが朗らかに勇気づけてくれて、自然と自分の頬も緩む。自分の努力を見守ってくれる人の存在は、素直に嬉しかった。実のところ、結構必死に勉強してはいるのだ。五条さんに世話になっている以上、半端な学校に進学するつもりは毛頭無い。
「……本当、いつの間に大きくなっちゃって。高校や、もしくはこれから先、何かやりたいことはあったりするの」
「やりたいこと……」
「こんな部活入りたい、とか、将来なりたい職業とか。まだそこまで考えてはないかな」
 ――将来の夢なら、一つある。地に足のつかない、文字通り夢のような未来図。実現するにはあまりに浮ついたものだったから、まだ姉にすら伝えていない。もちろん、五条さんにも。
「ン、その顔は、何か考えてる顔だね。五条さんに言ってごらんよ」
 俺の態度に興味を示したようで、五条さんは返答を促した。
 ――獣医になりたい。
 ――その勉学の過程で、まだ日本で同性婚が認められていなかったら。同性婚の認められている国に留学して、そこで、ゆくゆくは五条さんと一緒に暮らしたい。
 俺がこんな馬鹿げたことを夢想していると聞いたら、アンタ、どんな顔するのかな。
「……獣医に、なりたいんです」
「へえ、いいじゃん!」
 恵、昔から動物好きだものね。五条さんの笑顔を見て、ホッとする。結局、夢の後半については、まだ胸にしまって置くことにした。万が一実現させるとしたら、五条さんの事業にも影響が出る話だ。自分でもまだ決心が固まっていないのに、迂闊に口に出すわけにはいかない。まだ誰にも掴み得ない夢として、自分の思考の海に泳がせておいてもいいだろう。五条さんと結婚して、共に暮らす。そんな絵空事を現実にしてみせるためには、ひとまず今は机に向かうことが第一だろうから。

 二人で食事の片付けをする最中、なおも胸が高鳴る。冷蔵庫に、今日の最後のお楽しみが眠っているのだ。フルーツパーラーの、中身まで果物ぎっしりのズコット。
「昔も一緒に食べたことあったよね」
「覚えてたんですか」
「もちろん。初めて、恵や津美紀と一緒に食べたケーキだもの」
 その通りだ。五条さんと一緒に選んだ、初めてのクリスマスケーキがそれだった。
「かわいかったなあ、恵も津美紀も、ショーケースのところまで行って、目をきらきらさせてさ。二人であれにしよう、これにしようって散々迷ってた」
 最後の最後で、幼い子供たちに五条さんが指し示したのが、そのショーケースの中でひと際目を引く大きなズコットだ。キウイ、オレンジ、いちご、ブルーベリー、マスカット、メロン……宝石のようにきらきら輝くフルーツで彩られたそれは、間違いなく至福のごちそうだ。
 そのズコット3つ分が、我が家の初めてのクリスマスケーキになった。俺が、五条さんに歩み寄るきっかけになったケーキ。大切なその味を今一度食べたいと思ったから、今日も同じものを購入した。――五条さんと、恋人になった記念に。
 食卓をまっさらにして、ことりとケーキ皿を2枚並べる。
「じゃあ俺、冷蔵庫から取ってきますね」
「お願いしまーす」
 立ち上がる。宣言通り、冷蔵庫に向かった。

 冷蔵庫を開けようとした瞬間、キィン、と耳鳴りがした。
「ッ、」
 不快感に、思わず耳を抑える。
(……ぐみ、)
「……?」
 誰かの、声がする。記憶の、奥底。
 無意識に、冷蔵庫に目を向けた。何の変哲もないカレンダーがかかっている。
「……あれ」
 今日の日付の欄を凝視する。そう、今日は12月24日。2017年の、……。
「なんで、」
 声が震える。だって、おかしいのだ。
 どうしてか、「クリスマス会」の文字が二重線で消してある。
 更に、その二重線で消された予定の下。何かが書いてあるのに、読めない。
 明らかに日本語が記載されているのに、脳が認識しない。そこだけ目の焦点が合わないというか、うようよと、意味もなく黒い線が蠢いている。
 何なんだ、これは。クリスマス会が中止になれば、自分で把握しているはずだ。この二重線は、誰が引いたものなのか。それに、現にクリスマス会はこうやって開かれて……。
(……めぐみ、)
 読めなくなっている部分を、指でなぞる。なぜ読めない?
 なぜ、この4文字が読めなくなっている?
(……逃げちゃだめ)

 ――なぜ俺は、この文字列が、4文字だと知っている?

「めーぐ」
 後ろから覆いかぶさる者があった。甘えた声で俺の名を呼ぶのは、間違いなく俺の恋人で……。
「どうしたの。お腹いっぱいになっちゃった?」
 ゆっくりと五条さんを背中から引き剥がして、その顔を見る。鉱石を思わせる、どこまでも青く澄んだ瞳。
 ――おかしい。なぜこの人は目隠しをしていない?
 目隠し?
 変だ。五条さんは大抵裸眼で。
 そんなことはない。彼はいつも、サングラスかアイマスクを。
 何のために。
 ――何のために?
「あれ、本当に大丈夫? 疲れちゃったかな」
 そうだ、その瞳はあらゆる呪いを看破する瞳。
(逃げちゃだめ)
「いっぱい食べたものね。少し食休みでもしようか」
 目に負担がかかるから、特別な事態に陥らない限り隠されている眼。
(敵をよく見て)
 ――一旦戻ろう、と俺の腕を引くその分厚い手は、確かに温かくて。
(目を離すな。逃げちゃだめだ。逃げたら、)
(殺されちゃうよ?)

 百鬼夜行。脳に閃光が走った。
 2017年、12月24日。夏油一派による百鬼夜行決行の日。呪術界の一番の主戦力は、あの阿鼻叫喚の中に、当たり前にその身を投じた。だから、クリスマス会は中止になったんだ。この空間全てが、虚構。

 津美紀が高校に行っているはずがない。被呪したきり眠り続けている。彼女の時間は、中学3年生で止まったままだ。
 俺が未来の夢を語るはずがない。伏黒恵の将来は、6歳の時分に全てが決まっていた。
 そして。

「恵」

 あなたが、そんな甘い声で俺を呼ぶはずがない。
 そんな熱っぽい目で俺を見つめるはずがない。
 五条悟が、俺の恋人であったことなど、これまでも、そしてこれからも。絶対に、あり得ない。
 だって俺たちは、
 どうしたって呪術師だから。

 即座に、男から距離を取った。
 なぜ気付かなかった。これほどまでに呪いの気配が充満した空間。そうだ、任務中に、呪霊に攻撃されて、そのまま眠った。低級だが精神干渉を仕掛けてくる厄介な呪霊。被呪者の記憶をかいつまんで、夢の中で永遠に快い体験をさせて現実に戻れなくする、そんな気色の悪い呪いを吹っ掛ける。きっとこの空間を壊さないと、こいつの解呪はかなわない。
 部屋の照明が、不規則に点灯したかと思えば、ブツン、と大きな音を立てて切れる。
「気付いちゃったか」
 ビシ、と窓ガラスにヒビが入る音。微かに漏れる光で、目の前の男が、力なく笑うのを視認する。
「……ねえ、この世界はさ、津美紀が元気に生きてる。恵が呪術師として働く必要もない。訓練で生傷ばっかりこさえたり、任務で死線を彷徨うこともない。僕だって、ずっと君の傍に居るよ」
 掠れた声で続ける。部屋一面に亀裂が走る。クリスマスツリーも、ケーキ皿も、冷蔵庫の中のズコットも、全て闇の中に消え去った。ここに残っているのは最早、俺と、彼だけ。
「約束する、ずっと、みんな君の傍に居るよ。君が願えば、お父さんだって、お母さんも帰ってくる。それでも君は、――君は」

(恵、逃げるな。逃げちゃだめ)
(生きて、戻っておいで)

 それでも俺は、俺を選んではくれない五条悟を選ぶよ。
「玉犬」
 この両の手が俺の武器だ。相棒はすぐさま現れた。俺に勇気をくれる、俺の術式。
「……恵」
 男は、唇をゆがめて、最後の言葉を発した。
「愛してるよ」
 五月蠅い。呪いが、囀るな。
「喰っていいぞ」
 血しぶきが飛び散るその場で、俺はくらりと昏倒した。

***

 意識が浮上する。重い瞼を上げると、見慣れた白い天井が目に入った。呪術高専の医務室。
 ぼんやりと窓の外を見やる。朝焼けが見えるから、恐らく早朝だろう。
「恵」
 そのままゆっくりと、視線を下方にずらす。
「おはよう」
 アイマスクを付けた五条先生が、パイプ椅子に腰かけている。――俺の恋人などでは決してない、ただの五条悟が。どうやら、無事に現実に戻ってきたらしかった。
現実でも、俺が馬鹿げた恋心を彼に抱いているのは一緒だった。でも、彼は五条家の次期当主で、俺は因縁ある禪院の出身、しかも十種の術式持ち。手を組めという方が無理な関係だ(それでも五条悟は無理に俺を仲間に引き入れたけれど)。それに、師匠と弟子、更に言うならば、今は教師と生徒。ただ、それだけの関係に過ぎない。それ以上の関係に、なり得るはずがなかった。どうしようもない感情は、とうに心の井戸の奥深くに捨ててしまった。誰にも掬いようのない場所に。当然、彼が気付くべくもない。
「……呪霊は、跋除できましたか」
「うん、悠仁たちが何とかしたって」
 良かった、と呟く俺に、五条さんは少し呆れた顔をした。
「こっちのセリフだよ。恵、丸一日全く目を覚まさなかったの。心配したんだから」
「……呪い、を解くのに手間取って」
 起き抜けで、意識が中々はっきりしない。何とか返答をこさえる。
「攻撃食らって被呪したってね。見る限りでは弱い呪いに見えたから、干渉しないで様子伺ってたけど」
「……夢を、見させられて。幸せな夢です。津美紀が高校に行ってたり……。解呪のために、そこに出てきた五条先生を殺す必要がありました」
 五条先生は何も言わなかった。
「……よく考えたら、やっぱりあれは夢ですね。だって、俺が五条先生を殺せるはずない」
 ゆらゆらと判然としない意識の中、つい、余計なことを口走る。無下限による無限は、五条悟に対するあらゆる攻撃を阻む。殺せるはずがない。俺の刃が届くはずが――。
「殺せるよ」
 抑揚の無い声が、思考を遮った。
「君は、僕を殺せる。だって、そういう術式だもの」
 慶長の話が絡むとき、五条先生はいつもこの調子だ。稽古の時に、俺が彼から一本も取れないことは重々承知のくせに。
「……殺せるかもしれないけれど、殺すはずないでしょう。だって、俺はあなたの生徒で」
「でも、殺せる」
 五条先生の頑なな主張が、微妙な間を形成する。アイマスクの下、彼がどんな表情をしているのかは全く読み取れない。
 しばらくして、家入先生が朝の検診に来た。五条先生は緊張した空気をそのまま放って、「じゃ、僕任務だから」とふらっと去ってしまった。
 俺の刃が、もし彼に届くとしたら。俺は考える。
 そうしたらその時は、あの夢のように、津美紀も目を覚まして、高校へ通って。
 ――そして、彼が俺を愛する時が来ることも、あるだろうか。
 そこまで考えて、いや、馬鹿馬鹿しい、と思考を一蹴する。俺は布団を頭まで被って、二度寝を決め込むことにした。

***

 任務で恵が被呪して、昏睡状態。その連絡が入った時、僕は自分の任務を早々に切り上げ、すぐさま高専に戻った。六眼で状態を確認する。体の怪我は硝子が粗方治した後で、受けた呪いは軽微。精神干渉するタイプのようで、恐らく恵自身が眠っている間に何かしらの解呪条件をクリアしないと戻ってこられない。一先ず経過を見守るべきだろう、ということで、治療班とともにそのまま様子を見ていた。
 恵が眠り続けて、一日が経過。日中、特段大きな変化は無かったという。夜中に一つ軽い任務を終えて、まだ夜の明けないうちに戻る。向かった先は、もちろん僕の一番弟子の療養するベッド。
 恵の眠る間は、彼の顔から険が取れる貴重な時間だ。その安らかな表情には、昔から見守ってきた小さな少年の面影が残っている。窓から差し込む月明かりのせいか、その顔はいつもより青白く見えた。
 ――恵にしては、解呪に手間取っている。軽い呪いに見えたんだけどな。
 大元になっている低級の呪霊は跋除したというし、呪いそのものの効力も昨日より薄まっているように見える。二級術師となった今であれば、解呪はそう難しくはないと思ったが。自分が介入して無理やり祓うべきかと迷ったものの、若人の力を信じてしばし待つことにした。
 9年間、彼の面倒を見てきた。伏黒恵は、僕にとっては特別としか言いようのない少年だ。僕を殺す一歩手前まで迫った、最強の天与呪縛の息子。無下限六眼持ちを破り得る、因縁の術式の持ち主。僕の一番弟子であり、かけがえのない生徒の一人で、そして、僕の呪術界改革に向けて手に入れた、初めての仲間。
 打算づくで付き合いの始まった彼に、情が移り始めたのはいつからだったか。最早、恵は僕にとって「大切な存在」の次元をとうに越している。血縁もない、それどころか敵対する家関係だけれど、彼は僕の隣に、もしくは僕よりもはるか先に居てくれなければ困る人間だ。僕にとって、「十種」とはそういう存在だ。
 いよいよ恵の顔が白くなってきたような気がする。お腹の上で組まれた彼の手にそっと自分の手を重ねると、不意に、彼は寝言を発した。
「……さ、とる、さん……」
 僕は硬直した。
 彼の交友関係の中で「さとる」を名に持つ人間を急いで思い返す。いや、いない。絶対いない。僕以外に、その名を持つ知り合いは彼にはいなかったはずだ。
 耳慣れない呼び方だった。この9年間の中で、恵が僕のことをそんな風に呼んだことはない。――まるで、恋人のような。
「恵、どんな夢見てるの」
 話しかけても、未だ少年は目を覚まさない。自分の知らない恵がいるようで、何となく気にくわなかった。
 お腹の上で組まれた手を丁寧にほどく。指を慎重に折ったり、伸ばしたりして、犬の形をどうにか作った。十種影法術師に、一番初めに与えられる力。
「玉犬」
 当然、恵が自発的に呼び出さない限り、彼らは現れることはない。僕の呼び声に答えるはずもないが、彼の影の中に潜んでいる式神に、祈りを託す。
「恵を守ってやって。夢の中までは僕も中々入れないから」
 彼にここで退場されては困るのだ。だって、恵は、――恵は。
 生きて、戻っておいで。そう願って、五条悟は、伏黒恵の額に、一つ、静かなキスを落とす。

(終)

🌸🌸🌸🌸🌸

以前、

「mgm、逃げちゃだめ」を話のどこかに入れるお題を出して物語を執筆してもらうことにより、その作者さんがどういう傾向の五伏を描くかがわかるタイプ別五伏診断(?)

というものをツイッターで呟いたので、まあ言い出しっぺだし作っておこうかな…ということで作った作品です。ヘキは出た気がします。夢オチなんてサイテー!