逆波の唄をきく - 2/7

1.夜蛾正道

 派手にガラスの割れる音が廊下に響く。夜蛾は何事かと思って保健室の扉を乱雑に開けた。中にいたのは五条と家入。二人の間には灰皿の破片が散らばっていた。
「なんで私に任せなかった」
 家入の叱責が飛ぶ。
「術師の遺体処理に関してはまず私を通すことになっている。なんでお前の独断で処理したんだ」
「一番に相談に行かなかったのは悪かったよ。でも硝子はあの時、術師の治療に奔走していて手は空いていなかった。一刻も早く処理する必要があったから、僕の判断で自分で処分した」
「詭弁だ」
「硝子の下で普段作業してる奴と一緒に処置した。処置自体には特に問題なかったはずだし、監督責任者である硝子に向けてちゃんと報告書も上げてある。何が不満なんだよ」
「全部だよ。なんで、なんでよりによって夏油の遺体を勝手に……」
 この惨状の理由に、合点がいく。二〇一八年十二月二十七日、夕方六時。日本中の呪術師が、夏油一派の引き起こした百鬼夜行の後始末をしていた折のことだった。
 家入はそのまま、「頭を冷やしてくる」と言ってどこかへ行ってしまった。残った五条が、部屋付属のちりとりとほうきで灰皿の欠片を集める。そのままつっ立っていても仕方がないので、夜蛾も無言で濡れ雑巾を持ってきた。ありがとうございます、と雑巾を受け取った五条が木製の床をしゃがんで拭く。長年の使い込みで傷だらけになった床。丸まった背中越しに五条が問うてきた。
「学長、何か用事ですか。もしかして硝子に?」
「いや、たまたま通りすがっただけだ。五条には頼みたい仕事が――官公庁がらみで顔を出してほしいところがいくつかある。片付け終わったら一緒に学長室来てくれ」
「あー、諸々壊してすみませんって謝るだけの簡単なお仕事、ですか」
「概ね合っている」
 ハハ、と乾いた笑いが返ってくる。
「了解です、どこへでも行きますよ」
「お前にしちゃ随分殊勝な発言だな」
「頭下げりゃいいだけなら楽ですから。学長がやる仕事、今、大量にあるでしょう」
 確かにそれはそうだった。百鬼夜行による呪術高専の物的被害、人的被害は甚大だ。全壊・陥没してしまった一区画の再建に向けては早急に対処する必要があったし、負傷した術師の仕事のカバーも同時にこなさねばならない。五条の言うことはもっともであったが、だが何となく、彼がこうした仕事を素直に請け負うのは腑に落ちない。むしろ、「え~、また面倒な仕事押し付けないでくださいよ」と散々文句を垂れると踏んでいたので、拍子抜けしてしまった。
 ここから一番近い新聞置き場は職員室だったはずだ。中に入ると、未だ仕事を続ける職員が多数残っている。ここひと月ほどの新聞が平積みになっている新聞置き場に向かった。
 一番上に積み重なっているのは二十五日の朝刊。一面を「新宿・京都、暴徒により襲撃」「首謀者は行方不明」と大見出しが飾っている。
 百鬼夜行の首謀者、最悪の呪詛師と謳われた夏油が、五条と家入と同じ学級にいた時間が、呪術高専には確かに存在する。それまで強さを持て余していた五条に、彼と同じ特級の夏油は最高の好敵手となった。どうしようもなくガキだった五条の精神に、夏油は大きな影響を与えた。夜蛾なんかよりも、ずっと。夏油と五条は、親友だった。夏油、五条、家入の三馬鹿トリオは、お騒がせな連中ではあるがうまくやっていたように、夜蛾には見えた。
 それでもあのうだるような暑さの九月、夏油は離反した。あの直後、五条は多少荒れた。無下限術式が戦闘中に途切れるトラブルが頻発し、あの五条が重傷を負って帰還することも少なくなかった。自暴自棄になっていた。
 時が経って、やがて五条は、前を向くようになった。高専の教師になりたい。そんな進路希望を伝えられたときは夜蛾も目を丸くした。夜蛾は彼の背中を押した。そうやって、夏油傑によって、五条悟は大人になった。大人になってしまった。
 夜蛾は、しばらくその朝刊を見つめたあと、結局一番底にある新聞を一部、手に取った。
「学長」
 背後から、声をかけてくる女性。家入だった。
「先ほど、すみませんでした。お見苦しいところお見せして」
「いや、気にするな。ただ、手続き自体は五条の言っていた方法でも問題はなかったはずだ。あとで謝っておけ」
「……夏油の遺体処理に関する報告書は、目を通しました。確かに問題はなかった。しかし、夏油は何しろ呪霊操術持ちの特級ですから、本来慎重な処分が必要でした。できれば自分の手で始末をつけたかった。なんだかんだ、ここで一番『処理』がうまいの、私なので」
 もっともな言い分である。遺体の調査、処理にかけては彼女が一番精密な仕事をすることは事実だった。
 夜蛾はまた保健室に戻るところだが、家入は、と訊くと、彼女は首を横に振った。
 そして、若き反転術式使いは、ぽつりと呟いた。
「あいつ、普通過ぎませんか」
 五条のことか、と確認する。相手は無言で肯定した。
「夏油を殺したっていうのに、不気味なくらい落ち着いてる。それが、無性にムカついて」
 言葉を切って、そして彼女は小さく毒づく。
「親友を殺したっていうのに、『五条悟』だから何でもないような、平気そうな顔してなきゃいけないっていうのが、本当にムカついて。あいつにも、自分にも」
 苦虫を噛み潰したような顔。それが保健室に戻らない理由、ということらしかった。
「親友を、社会の正義のために自分が殺しただなんて、常人なら錯乱したってお釣りが来ます。あいつ今、怒り狂って泣きわめいたって足りないはずです。なのに、そうしない。最強の『五条悟』だったらそうしてはならない、って思いこんで、感情を無理に抑制してる」
 夏油が離反した直後を思い返す。身に危険を感じたら撤退しろ、と何度説いても、素知らぬ顔をする五条。どうせ反転で治るから、いいだろ。そう言って、あばらが肺に突き刺さるような怪我をも顧みなかったことも何度かあった。そういう激情は、今の五条からは全く見受けられなかった。でかい図体を小さく丸めて、床を拭く五条。面倒な仕事を頼んでもすんなり受け入れる五条。むしろいつもより大人しいくらいのその態度。
「単に悟が、大人になったから落ち着いた態度を取っている、ということではなく、我慢していると?」
 家入は少しだけ黙って、こう答えた。
「あいつこのままだと、そのうちどっかで壊れますよ」
 長年、五条を傍らで見てきた彼女の忠告。
 別の用事あるので、と言う家入とは、そこで別れた。
 保健室に戻る。五条はありがとうございます、と新聞に手を伸ばした。
 ふと疑問がこぼれた。
「あのとき、なんで硝子に任せなかったんだ」
 ほんの一瞬、ぴたりと五条の動きが止まった。
「学長まで言うんですか。さっき硝子に言った通りですよ、彼女が忙しそうだったので僕が処分しておいたまでです」
 あくまで五条は、いつもと同じく飄々とした態度をとる。しかし、ほんのわずかな違和感。声が明るすぎる。
「納得しませんか? まあ、それなりに長い時間過ごした同期ですしね。硝子に配慮したってのは、正直あります」
 本当にそうだろうか。夜蛾の脳内には疑問が残る。これまで、五条が家入に「処理」を頼んだ中にも、彼女と長い付き合いの術師は少なからずいたはずだった。単純に「長い時間過ごした」だとか、親しかったというのは、夏油を彼女の遺体処理にかけない理由にはならないのではないか。
 五条は、がさがさ、と新聞紙にガラス片を包んで、手近なビニール袋に入れ、口を縛った。
「お待たせしてすみません。学長室へご案内、よろしく頼みます」
 疑問は残ったままであったが、特に執着するような話題でもない。夜蛾はああ、と返事をして、二人保健室を後にする。電気代節約のためにところどころ電灯点灯を避けている廊下は、暗い。大人二名分の足の重みで、床がぎしぎしと鳴る。
「……さっきの話の続きなんですけど」
 背後を歩く五条が道すがら、口を開く。ああ、と返事をして、そうしたら五条はしばらく言いよどんだ。返事を急くような話題でもなかったが、夜蛾が歩みを進めていると、とうとう足音が一人分になった。
「どうした」
 夜蛾は振り返る。
 もうすっかり夜になった廊下に、五条悟が一人、立っていた。五条はとっくに大人に成ったはずで、なりも昔とは全然違うのに、目の前の彼はまるで高専の学生であるかのような錯覚を夜蛾は覚えた。そんなはずはないのに。影に飲まれた廊下はあの世とこの世の境目だ。彼の巨体の像がゆらゆら揺らぐ。
 彼は大人になったはずだった。高専生の頃の彼はいなくなったのだと、勝手に思っていた。違った。夜蛾だって気付いていた。五条は夏油の離反後、自分の中に夏油を作った。夏油の姿を追い続けて、ようやくできたのが、どこから見ても胡散臭い大人の『五条悟』だった。一人称すら「僕」に変えて、夏油の後追いをして、でも夜蛾から見たら、五条は夏油になんかなれていなかった。
 なれなくても、彼は追うしかなかった。親友が自分の隣にいないのであれば、自分で作る他、彼には道は残されていなかった。そして今日、もはや、夏油はこの世にいない。今こそ五条は夏油の虚像を内包してそこに立つ。その羽化の前、「五条悟」という核が、生と死の曖昧な境界で、か細い叫び声を上げた。
「傑の亡骸を、俺以外の誰にも触らせたくなかったんです。硝子の下に持っていかなかった理由は――それだけです」
 このこと誰にも言わないでください、とぼそりと付け加えて。五条はそこに立っていた、一人で。
 そうか、とだけ返す。二人は再び学長室に足を進めた。ギシリ、と足音だけが場に残った。