逆波の唄をきく - 3/7

2.日下部篤也

 日下部篤也は、五条悟という人間が苦手だ。お互い呪術高専の教師だし、同じ呪術師という職に就いているとはいえ、日下部は五条に対して親近感を持ったことはない。持てるはずがない。生まれついて無限などという得体の知れないものを扱えて、御三家の坊ちゃんで、その術式ゆえ、最強。一方自分はといえば、後天的に呪術を取得して多少人より素早く動けるだけのただの一般人である。謎の無敵バリアを身にまとい、爆発的な威力の攻撃を体から放ち、宙に浮いて悠々と戦況を見下ろす白髪の美丈夫を、「化け物」と形容する以外の日本語を俺は知らない。自分が「あれ」と同じ呪術師だって? 冗談も大概にしろ。――元々これだけの力があれば、俺の家族だって、妹の子だって簡単に守れたはずなのに。
 そういうわけで、日下部はむしろ五条を敬遠していた節すらあった。

 夏油傑が決行した百鬼夜行などと言う馬鹿騒ぎの結果、治療班の奮闘も虚しく、命を落とした呪術師や窓が出た。夏油が溜めこんだ呪霊は、被害者に生々しい傷跡を残した。半身無くなってしまった者、体が破裂した者、全身が渦を巻いてぐちゃぐちゃの者、色々。夏油が腹に抱える憎悪そのものの噴出の跡だった。遺体の身元確認についてはどうしても遺族が行わねばならず、百鬼夜行の後ひと月ほどは、特別の許可を得た遺族が窓の先導の下、高専の敷地内を歩く姿が散見された。
 運良く――運悪く、かもしれないが――生き残った高専関係者は皆、めでたい新年を目前にして真っ黒の喪服に身を包んだ。呪術高専所属の術師・窓の死体や遺骨は、呪詛師連中に万が一にも悪用されることを防ぐために高専で管理せねばならない。百鬼夜行で亡くなった者についてもいつも通り、高専に隣接する火葬場と斎場で葬儀を行うことになっていた。しばらくの間は、連日のように斎場に赴いた。式の途中で泣き崩れる遺族がいる一方で、早速遺産相続の争いを持ち出して揉める連中もいた。

 大晦日の前日だった。流石に一年の終わりともあって寒気の強まる時期、この日も午後から一つ葬儀があった。日下部は五条の近くの席に座った。五条は、今日はいつもの怪しげなアイマスクでなく、サングラスを着用している。一般人の遺族への配慮ということらしかった。
 一連の式が終わって、皆で会場を後にしようと席を立ち移動しかけた時だった。ひと段落した時分、サングラスを外して、グラスの部分を拭いていた五条の下に、一人の女性がふらふらと歩み寄ってきたのだった。五条と知り合いの遺族か、程度に考えてスルーしかけた。
「人殺し!」
 会場の空気が凍り付く。先の女性が叫んだのだ。彼女は五条の胸元をぶるぶる震える腕で掴んでいる。同時に、カシャンと物音。五条がうっかり、手にしていたサングラスを落とした音だった。――こいつ、いつも無下限、張ってるんじゃなかったのか。こういうときのためのバリアなんじゃないのかよ。何やってんだ。――女性は、凶器は持っていないようだ。変に安堵する。
 亡くなった術師の奥さん。そういや、数年前に結婚式に呼ばれたことがある。日下部は思い出した。呪いが見える人じゃないんですけど、理解を示してくれて。あいつそう言ってたっけ。結婚式では美しく着飾り、華やかに笑っていた彼女が、今日は頭髪を振り乱し、憎しみを込めた目で五条を睨んでいる。鬼のような、それでいて哀れな表情だった。
「あなた五条悟でしょ。みんな頼りにしてるって、あの人がいれば大丈夫だって、旦那も言ってた。なんで、どうして助からなかったのよ」
 女性が弱弱しく五条の胸を叩く。五条は硬直して、ただその女性を見下ろすばかりだ。普段の五条だったら、御三家やら上層部やらを相手にしてきたお前なら、こんなのスマートに切り抜ける。舌だって人よりも回る奴だ。それが、今は女の憤怒を真正面から馬鹿正直に受け止めて、戸惑っている。何してんだよ。
「どうしてあの人が死ななきゃならないのよ、どうして、どうしてよお」
 女性は膝から崩れ落ちて、ぺたんと床に座りこんでしまった。騒ぎに気付いた夜蛾が寄ってきて、ただただ、彼女に頭を下げる。ようやく正気に返ったと思しき五条が、それに倣った。女性の親族がすみません、と申し訳なさげに女性を連れに来て、彼らはその場を去った。
 会場から大方の人が去っても、五条はどこか上の空でそこにじっと立ち尽くしたままだった。
「おい、五条。大丈夫か」
 床に落ちたサングラスを拾ってやるついでに、日下部は柄にもなく声をかけてしまった。心配したからではない。いつも生徒や窓をいびったりからかったりしているふざけた態度を、まるっとどこかに忘れたような彼は、石像のようで気味悪い。自分の居心地の悪さを解消したかっただけだ。
「あ、ああ」
 五条は日下部に気付いて、返事とも言えない返事をする。
「ごめん、ぼうっとしてて」
 へらっと軽薄に笑おうと試みているが、失敗している。よく見たら、彼の目元にはうっすら隈ができていた。
「あー、サングラス、ちょっと曲がっちゃったかもしれない」
 彼の武骨な指がサングラスの縁を伝う。乱闘の際にどちらかが踏んづけたのかもしれない。確かに、フレームが歪んでしまって斜めに傾いている。
「らしくないな」
「あの人が泣いたの、僕のせいだって思ったら、動けなくなっちゃって」
 五条は、ぽつりと、次の言葉を続けた。
「また、救えなかった」
 ――あれ、こいつ、目、潤んでないか。
 そう思ったのも束の間、彼は手に持っているものを素早く装着した。特注らしいその漆黒のガラスが、五条の瞳を覆い隠す。
 ああ、と日下部は思った。
 こんなに自分と違う人間なのに、どうしようもなく、頭のてっぺんからつま先まで自分と同じく呪われた呪術師である彼のことが、――やはり苦手だ。
「お前、煙草は」
「昔ちょっとだけ吸ったこともあるけど、今は」
「吸わなくていい、ちょっと付き合え」
「禁煙してたんじゃ……」
「うるせえ、黙ってついてこい」
 斎場の外に出る。喫煙所は午後四時代の柔らかな日差しの陰にあった。五条のことがどうしようもなく苦手な日下部は、禁煙の誓いも破って、仕方なく、煙草を吸ってやることにした。こいつの喪服に染みついた遺骨の匂いが、少しでも紛れりゃいい。そう願うことくらい、俺に許せよ。そう思っていたら、当の本人は、副流煙の方が体に悪いのに、なんぞと苦笑した。うるせえ。