逆波の唄をきく - 4/7

3.五条悟

 急に室内が明るくなった。妙だ、と感じた五条はパソコンから顔を上げる。誰もいない職員室全体を、黄色い西日が柔らかに照らした。外から緩やかに入り込む冬の空気が、窓際のカーテンを微かにはためかせる。
 廊下側から、コンコン、と職員室の窓を叩く音がする。誰だ。目を向けた瞬間、五条は息を飲んだ。
 前髪、うさんくさい面、スケコマシ。
「悟、報告書まだ終わらないの」
 夏油傑が、そこに居た。呪術高専の制服を纏って。
 何かの術式か、攻撃か? 本能的な危機感に駆られて、対象を六眼で凝視するが、有害そうな要素は一切見当たらない。硝子までのこのこやって来た。ああ、二人とも、若い。
「なんだ、五条まだ終わってなかったのか。再提出になった分、そんなに多かったの」
「悟、普段から報告書溜めてるから」
「あーもう、放っといて行こうよ。早くしないと歌姫先輩のクリスマスケーキ、無くなっちゃう。楽しみにしてたのに」
「先輩お手製なんだろ? すごいな。何ケーキだろ」
「チョコって言ってた。中にいっぱいナッツ入れたって」
 そんな会話が、ガラスを隔てて聞こえる。遠くの方で、どたどたと賑やかな足音。
「じゃ、悟、私たち先に行くから」
 そう言ってあっさり、夏油と家入は五条に背を向けて連れ立とうとする。
「待てよ! 傑――」
 五条は慌てて席を立ち、叫ぶ。書類の山がぐらついて、ばさりと落ちたがそんなのは関係なかった。職員室の引き戸を乱暴に開ける。がらり。

 深夜一時半の暗闇と、耳鳴りのするような静寂。
 扉の向こうに待っていたのは、それだけ。
 廊下端の非常灯だけが、青く、鈍く光っている。

 当たり前だ。こんな夜中に窓から陽光が入り込むはずがない。職員室の窓はとうに閉め切っている。ゆらめくカーテンも、旧友の姿も、全て、全て虚像。
 ドア枠にもたれかかる。わかっていたことだった。幻覚と幻聴。いよいよヤキが回ってきたかな。目元を抑えて、軽くマッサージする。床に散乱した書類を整頓しなければ。再び室内に体を向けたところで、真っ暗な廊下の先にから、人がやってくるのを発見する。今度は、実体のある本物みたいだ。
「五条さん、まだいらっしゃったんですか」
 いつものスーツではなく、紺色のパジャマにふくふくとしたダウンコートを羽織っている。伊地知だった。

 伊地知の用事は忘れ物の回収であったようだ。来たことで目的は達したらしく、ホッとした表情を浮かべている。成り行きで、先ほどの不思議な現象について話すと、彼は目を丸くした。
「それは不思議なものを見ましたね」
 職員室備え付けの給茶機が、一人分の容量きっかりの液体を、茶碗にとぽとぽと注ぎ込む。五条のデスク上に、一杯の茶が差し出された。礼を言ってから、床の書類を一旦全部卓上に引き上げる。伊地知は、五条の斜め後ろ、適当なオフィスチェアに腰かけた。
「そういえば、呪術高専の七不思議にありませんでしたか。そういうの」
「そうだっけか」
「真夜中、高専に一人でいると、昔に亡くなった術師の幽霊が現れる、って」
 そういえば。天元様の結界術で高専敷地内の建物の配置が変わるときに、時空の歪みが発生し、その配置換えのときに建物内にいると、どういう理屈かは不明だが、建物で起こった過去の出来事が蘇ることがある……という現象に尾ひれがついて、やがて七不思議に仲間入りしたとかなんとか。原型自体も、本当なんだか嘘なんだかよくわからない話である。
「私も、そんなことあるのかと思っていたのですが」
 口元に微笑を浮かべる伊地知に対して、五条は怪訝な顔をした。
「……話した手前あれだけど、どう考えてもただの錯覚だろ。六眼は現実しか映さない。それ以外のおかしなものが見えるとしたら、六眼をはめ込んでいる入れ物側、僕の認識がおかしくなってるんだろうよ。だから、やっぱりさっきのは僕の中の妄想だよ」
 茶で口内を湿らす。そうして、五条は、自分は実は喉が渇いていることに気付いた。何時間、ここで作業してたっけ。そういえば夕飯も食べていない気がする。
 伊地知が、口を開く。
「五条さん、最近、寝られていますか」
 答えたくない質問だった。だから、無視した。ばさばさと、書類の整理。
「先日、家入先生に睡眠薬を所望されていますね」
 軽く舌打ちする。伊地知が軽く身をこわばらせた気配があるが、そのままにしておく。彼に対して不満があったわけではない。硝子に対してだ。あいつ、守秘義務を易々破りやがって。
「寝られないとしても、せめて寝ようとする努力はなさってください。本来であれば五条さんでなくても対処可能な低級跋除案件から、窓がやるような事前調査の仕事も勝手に引き受けているそうですね」
 部下はなおも続けた。五条が手にしていた書類に、くしゃ、と折り目が付く。たまたま手元が狂っただけだ。決して、苛立ったからなんかじゃ。
「連日、朝から、就業が深夜を回るような仕事量を、もう一週間ぶっ通しで続けていると聞いています。ただでさえ百鬼夜行前も異常な日数の連勤が続いていたのに」
 ああ、うるさい。
「伊地知に関係ない」
 五条の態度にも関わらず口を閉じない部下をとうとう、低く、諫めた。五条は今、書類の整頓で忙しいのだ。さっさと帰ればいいものを。
「関係あります。あなたは、私の上司ですし、……それに、あなたは昔からの先輩です」
 五条は、軽く唇を噛んだ。本当に、うるさい。僕の仕事の邪魔をするな。
「心配なんです。あなたが、今、こんな過剰に仕事を詰め込む必要はないはずです」
 書類と向き合うふりももう限界だ。五条は伊地知にゆっくり、向き直った。向き直って、後悔した。伊地知は真剣な表情で、まっすぐこちらを見ている。いつもからかうたびに委縮している彼ではなかった。
「休んでください。五条さん。せめて、今日くらいは」
 五条は今一度、唇を噛んだ。一歩も引かないその視線に、どうしようもなく腹が立った。僕は、僕は今、忙しいのに。

◆◇◆

 玄関扉をぐらりと開けてそのまま、五条はベッドに直行、倒れこんだ。体重に任せて、体がマットレスに深く沈み込む。
 うつ伏せになった体からうめき声が漏れる。一旦眠ろうかと思った途端に、きり、と胃が痛む。夕飯は食べていなくて――そういや、今日も朝昼はカロリーメイトとゼリー飲料でごまかしたっけ。今すぐにでも眠りたいが、しかしどうにもきりきりと痛んだ。乱暴に額の包帯をその場にかなぐり捨てて、台所へと向かう。
 ろくに食料が見当たらない。辛うじて、買いだめをしてあったサトウのごはんくらいはあったので、茶漬けを作った。米を茶に浸すだけの、雑な茶漬け。
 味がしなかった。具すら載っていない。その上ろくに茶成分の浸出していない茶をかけた、ただの米。食事ともいえない食物ではあったが、それにしても。
 気を紛らわそうとおもむろにテレビを付ける。特番なんかをやっていて、やかましい。普段だったら壊れた笑い袋みたいに爆笑できる番組ですら、今は一ミリたりとも笑う気が起きない。たった一人の部屋の主を何とか笑わせようと、五〇インチの画面で芸人が踊る。全くの道化だ。間抜けだった、自分が。
 全く箸が進まなかったが、それでも今何か食べないと本格的に体を壊すと思ったのだ。再び、茶碗に口を付けたところで、う、と違和を覚えた。

 気持ち悪い。

 急激に腹部からせり上がってくる不快感、めまい。やばい。口を手でふさぐ。無様な足音を立てて、トイレに駆け込んだ。びちゃびちゃ。今さっき苦労して摂取したものが、生暖かい液体になって便器に吐き出される。また続けざまに胃の中の物を戻した。
 カエルのような醜い音を立てて、吐いた。胃液が鼻に回ってツンと痛む。まだ、出る。
 夕飯の米が、黄色い液体に混じって排出された。
 昼飯のカロリーメイトも、戻した。
 昨日のヒレカツ弁当が。四日前の焼うどんが。一週間前のゼリー飲料が。二週間前のおにぎりが、ひと月前のラーメンが、三か月前の寿司が、一年前のすき焼きが、三年前のうな重が、――遥か昔に食べた沖縄そばが、パピコが、ファミレスのパフェが、任務終わりのファンタが、初めて店の食券機で買った牛丼が、酒に付き合わされてつまんだミックスナッツが、事前調査の合間に食ったかき氷が、大食い競争の末に唇真っ赤にさせられた激辛カレーですら、歌姫お手製のクリスマスケーキだって、そして、傑と一緒に何度も食った高専のからあげ定食まで、全部、全部が。吐瀉物になり果てて、五条は空っぽになった。
 空っぽの体を、がらんどうの体を、悲鳴が突き刺した。

 人殺し。

 ようやく五条を射止めた声は、五条の中心に深々と突き刺さり、最早抜けることはなかった。無下限で全ての物理攻撃を阻む五条に、唯一触れられるものは、それは人の心だ。人の心こそが、五条を奮い立たせ、前を見据えさせ、そして今、彼の心臓を抉る。

 人殺し。
 あなた五条悟でしょ。
 みんな頼りにしてるって、あの人がいれば大丈夫だって。
 なんで、どうして。

 女の声。いや、男の声か? 色んな声。今までも、何度も、幾度も、繰り返し繰り返し聞いてきた声。あらぬ限りの罵倒を聞き入れる他ないときだってあった。ぶたれたことすらあった。充血した目、奥歯が砕けるほどに食いしばった歯、深い悲しみでわなわなと震える手。わかってきたつもりだった。彼らのその悲しみを、やりきれない思いを、理解したと思っていた。

 どうしてあの人が死ななきゃならないのよ。
 どうして。
 どうしてよお。

 人殺し!

 吐瀉物でどろどろになった口を、開いた。

「どうして」

 虚ろの体が、遂に、咆哮する。

「どうして、俺が傑を殺さなきゃ、いけなかったの」

 なんで、傑を死なせなきゃならなかったよ。
 なんで、あいつが死ななきゃならなかったよ。

 ごうごうと水が流れる便器の中に、一つ、涙が落ちた。生理的な、嘔吐に連動して生まれた、ただの、涙。
 六眼がなんだ。呪力が見えるから、なんだ。稀有な術式を使えるから、何だって言うんだ。親友が一人、思い悩むことも見抜けなかった、役立たずの瞳。現実すら見なかった、俺の業。
 最強なのに、守れなかった。傑を守れなかった。あいつを一人にして、呪術高専から追いやって。呪いになってしまった傑を殺した。僕が殺した。僕は最強の呪術師だから。それが仕事だし、僕にとって守るべき法であった。当然の帰結だ。夏油傑は最悪の呪詛師だ。だって、彼は百余名の人間を惨殺した。一般人を誑かして呪霊を蓄えた。百鬼夜行を行って呪術師に多大な被害を与えた。同情の余地のない、紛れもない犯罪者だ。

 それでも、
 それでも。

 僕は、親友を殺したくなかった。
 死なせたくなんて、なかったんだよ。

「うう、あああ」
 五条はえずいた。えずくたびに、涙が零れた。頬が濡れた。ズボンの大腿に雫が落ちた。何度も、何度も、落ちた。

 聞こえるはずのない除夜の鐘が、響き渡る。どの人間の煩悩をも等しく、浄める。
 空は朝焼けの色。始まりの日。
 やがて、山々が、雲海が、白い光に包まれる。
 どうしても、日が、昇る。