5.伏黒恵
『明けましておめでとうございます。おせちありがとうございます。昼、友人と初詣に出かけます。十六時までに帰宅予定』
『帰りました』
『正月うちに来ますか?五条さん来ないと食べ切れないので、友人と食べてもいいですか』
『友人を家に呼んで、おせち食べました。明日も来てもらいます』
『おせち、食べ切りました。ごちそうさまでした。空箱お返ししたいのですが、五条さんは近いうちに来ますか』
『図書館行って帰ります』
『五条さん、……』
自分の一方的な連絡だけが羅列するトーク画面を、意味もなくスクロールする。伏黒恵は、今日も眉を潜ませた。
返信がない。
というか、既読すら付かない。
いつだって予定は分刻みな彼のことだ。百鬼夜行だってあったし、色々あるんだろう。……あるんだろうと思ったけれど、もう一週間にもなる。
携帯電話を持たされてから九年間、自身の一日の居所と、おおよその帰宅時間を毎日五条に伝えるのは欠かすことのない習慣だった。多忙な彼が、姉と自分の面倒を見られない間の安否確認として、せめてもの方法ということでずっと続けてきたものだ。どんなに忙しくたって、一日の終わりかその日の深夜には必ず、律儀に返信をよこしてくれていたのに。
「家入先生」のプロフィール画面を睨んで数分、結局小さな不安に負けた。電話をかける。ものの三コールで、信頼している女医は応答してくれた。
「はい、珍しいね」
「あの、五条さんのことで」
「五条? 何か緊急の用?」
「そういうわけではなんですけど、……。五条さん、俺の連絡、十二月の末から今日まで、見てないみたいで。忙しいことは承知しているのですが、少し、気になって……」
語尾が明確に尻すぼみになる。実際言葉にしてみて実感した。本当に大した用事じゃない。電話をかけたことを後悔する。あの五条悟に有事があれば、呪術界の末端構成員たる自分の下であれ間違いなく何かしら情報は舞い込む。特に音沙汰無しということは、この連絡不通の原因はきっと大したことではないのだ。せいぜいスマホが壊れた、くらいの些細な事件に違いない。家入先生も膨大な仕事を抱えている身だ。それに、今日は日曜日。こんなことで時間を割かせてしまった。
「すみません。やっぱり何でもないです」
申し訳なくなって電話を切ろうとすると、「いや待て」と相手は静止をかけた。
「五条、百鬼夜行のあとから体調崩して臥せってる。多分そのせいだと思うよ」
五条が、体調を崩している。ひとまず生きてはいるらしい。安心したような、安心しきれないような。
「そう、でしたか」
「何か伝えとくこと、ある? 高専には居るから、伝えられるけど」
「いえ、特には」
「そう。何かあったら言ってくれていいから」
家入の好意に感謝し、今度こそ電話を切った。
あの五条さんが、体調不良。思えば、出会ってからこの方、彼が具合悪そうにしているところなんて見たことがない。いつも浮ついた態度で、心の裡の真意は真っ黒なサングラスの下に隠す。伏黒が知っている五条悟とはそういう人で、彼が病気で床に臥せっている姿は、全く想像がつかなかった。――家族だったら、そういう、保護者の弱った姿を見ることもあるのだろうか。
少し考えて、再び「五条さん」のトーク画面を開く。スマホに指を滑らせて、未だ反応のない自分の保護者に向けてメッセージを送った。
『体調、大丈夫ですか。今日は午後、津美紀の見舞いに行きます』
一月七日。窓が結露するほどの寒さだ。上等な仕立てのダッフルコートに袖を通して、カシミヤでできているという大層肌触りの良いマフラーを首に巻く。――どちらも五条さんが強引に買い与えてくれたものだ。予め用意しておいた差し入れ荷物を肩に引っ提げる。「行ってらっしゃい」なんて返してくれる人は、いない。それでも、「行ってきます」の一言を薄暗い部屋に残して、扉を開いた。澄み切った青空。キンと冷えた空気で目が覚める。
津美紀がいる病院までは、電車で一時間と十五分ほど。最初は近所のかかりつけの病院に搬送されたが、彼女が被呪者だとわかった時点で、高専の息のかかった病院に移った。埼玉の自宅からはかなり離れているが、それでも、月に三回は姉を訪ねるために、延々と列車に揺られている。俺に残されたたった一人の家族で、俺が呪術師をやる理由そのもの。大切な人だから。
たたんたたん。車内にはまばらな人影。端の席に座って、しばし壁にもたれかかった。すると目の前に、自分の乗っているのと同じ電車が並走し出す。
――オレンジの電車だから、にんじん電車だ。ね。
会話を、思い出した。津美紀が今の病院に移った時のこと、五条の言葉。
――恵、どうせ誰にも言わずに、お見舞い一人で勝手に行くでしょ。家から遠いから。
あの時彼はわざわざ、電車で病院まで付き添ってくれたのだった。補助監督の車送迎での移動を常とする彼が、俺に電車での行き方を教えてやるためだけに。
にんじん電車。車体を彩るオレンジの帯を見ての発言だ。はあ、などと素っ気ない返事をしたと思う。だって津美紀が解呪不能の呪いにかかって、目を覚まさなくなったのだ。焦燥、行き場のない怒りと、底抜けの悲しみと。絶望なんて簡単な言葉で一括りにしたくなかった。ずっと青い顔をしていた。
「にんじん電車」が、五条さん特有の突然の思い付きだったのか、それとも、当時の俺を和ませるための冗談だったのかは、定かではない。無愛想な弟子の態度もどこ吹く風で、五条さんは俺の手をぎゅっと握って笑っていた。もう中学生なんだから手なんて握るなよ、という抗議も、しなかった。どうにも離しがたかったのだ。あの手の温かさは、あの時、確かに救いだったから。
たたんたたん。
五条悟という人間は、わからない。
デリカシーの無い人。初対面の六歳児に、両親が蒸発した理由はお前だとニコニコ話す黒眼鏡。当初は悪魔にすら見えた。けれど今はもう、彼がただ非常識なだけの人ではないと知ってしまっている。
父親もおらず、津美紀の母親もいなくなって数日、生きるための選択肢がそう多く残されていなかった俺たちを、俺の高専入学を担保にしたとはいえ、束縛もせず育ててくれた。衣食住不自由なく過ごせるよう金銭的・物的支援を十二分にしてもらった。頼れる大人なんてどこにもいないと疑心暗鬼に陥っていた幼子に、手を差し伸べてくれた。俺に、呪術を扱う人間が生きるための術を、五条手ずから教えてくれた。一緒に動物園に行った。星を見た。遊園地で遊んだ。図書館まで見送ってくれた。不良や半グレの連中を横断幕に吊し上げたときですらヘラヘラ笑って許すような緩い保護者だけれど、危ないことをやれば厳しく叱ってくれた。常識は無いけれど、厚い情がある人だった。
――昔々、六眼無下限呪術の使い手と十種影法術の使い手とが、本気で殺し合って死んだ。
先日、ニコニコ笑ってそう言い放った男の真意が、わからない。
禪院筋の出身の、十種の術式持ち。どんな気持ちで育ててたんだよ、五条悟を殺しうる人間を。何で俺なんかを引き取ったんだ。
近付いたと思えば遠ざかる。遠くにいると思えば、目と鼻の先にひょっこり現れる。でも掴めない。捉えきれない。俺では。
あれ以来、五条と一緒に津美紀を見舞ったのは一、二回。訪ねてくれただけでもありがたいくらいだ。彼はただでさえ特級術師として多忙を極めているはずで、その上今は教師というわけのわからない肩書まで背負っている。五条悟が、俺たち姉弟にばかりかまけている場合では、全くないのだから。
車掌が目的地の駅名をアナウンスする。
――長く乗るからって寝ちゃだめだよ。ちゃんと起きてなさい。
耳の奥で懐かしい声がする。もうひと月は会っていない人の、厳しくも優しい声。
駅前、行きつけの花屋でささやかな花束を購入。病院まで運行するシャトルバスに乗って、十分。埼玉の街中では到底考えられないような大病院が見えてくる。
「それではこちらの面会カード、ご記入お願いします」
病院受付の案内に従って、提示された紙に名前だの、入館時間だのを記入していた折だった。
「ああ、伏黒くん」
背後から呼びかけられた。当初から津美紀の担当をしている、中年の女性看護師だ。病院内でも津美紀と呪い、呪術高専について知る者はごく限られているが、彼女はその数少ない人間の一人だった。
「津美紀ちゃん、いつもの部屋。お花持ってきてくれたのね、後で花瓶持っていくから」
「ありがとうございます」
「珍しいこともあるわね。今さっき、五条さんも来たのよ」
「えっ」
「いつも月に一度くらいは顔を出してくれるのよね。伏黒くんとは違うタイミングだけど。先月はいらしてなかったから心配してたのよ」
「そう、だったんですか」
衝撃だった。初めて聞いた話だ。
「まだ部屋にいるんじゃないかしら。うまくいけば会えると思う」
では、またね。看護師と別れる。面会札を首から下げて、落ち着かない気持ちでエレベーターを待った。
具合が悪いんじゃなかったのか。ついさっきまでは確実に、高専にいたはずなのに。病院に面会に来ても大丈夫なのだろうか。
五条があれから、頻繁に見舞いに来てくれていたなんて知らなかった。俺には一言も言わないで。そんな暇、そうそう無いだろうに。どうして、なぜ。
ひっそりとスマホを取り出す。祈るような気持ちで、「五条さん」のトーク画面を開いた。
「あ、既読、付いてる……」
ポーン、とエレベーターが来着する音。
病室の扉を、恐る恐る開いた。眠っている津美紀と、そして、丸椅子に座る、最強の男。
「体調、もう出てきて大丈夫なんですか」
五条は答えない。大きい背中を丸めたまま、背を向けてこちらを見ない。
伏黒は、一歩、近付いた。二歩、三歩、四歩。五条は微動だにしない。さらに歩みを進めて、七歩目 。
相対する。五条は最近していた包帯どころか、サングラスすら着けていない。いつも輝いている白髪はボサボサ。コートの下に来ているのは黒のスウェットらしかった。
「……五条さん、」
本当に大丈夫なんですか、の一言は遮られた。五条がゆるりと立ち上がったのだ。いつもの俊敏さは皆無。緩慢な動作で、そうして、そうして彼は。
俺を抱きしめた。
驚きで声も出なかった。縋るような抱擁。津美紀の前だ、恥ずかしいからさっさと離れろという一言が、どうしても口にできなかった。からかい半分でハグをしてくれたことこそあれど、こんな風に、慈しむように、何かにおびえるように、強い力で抱きしめられたのは初めてだったのだ。
嫌悪感は無い。むしろ、全身を包む温かさが、心地よくすら感じられた。
両手で抱きしめ返すことはできなかった。右手には、津美紀に向けた花束があったから。けれど、もう半分であれば。左手を、その分厚い背中に回す。そして、優しく、撫でた。二回、三回。昔、津美紀が俺にやってくれたように。相手を安心させるおまじない。
「恵」
巨体が、呻く。
「明けまして、おめでとう」
今にも泣きそうな声で、五条さんはそう言った。俺よりもゆっくりとした拍動。俺よりもほんのり高い体温。この人が人間だなんてこと、ずっと昔から知っていたけど、それでも伏黒は改めて、この人が人間で良かった、と思った。