逆波の唄をきく - 7/7

6.五条悟と伏黒恵

 スマートフォンが微かに振動する音で、五条悟は浅い眠りから目が覚めた。カーテンを閉め切った部屋の暗がり、灰色のシーツの上。いつまでも夜を引き摺る部屋の中で唯一、その電子端末だけが、光を発している。
 休職命令発令から一週間、五条は他人を拒絶した。ひたすら温かい毛布の中で身を丸くしていた。一人きりの時間を、泥濘に浸かるように甘受した。「五条悟」として生まれて初めて、休んだような気がした。そうして一人顔を歪めて、こんこんと眠った。
 他人との連絡を絶っていた彼が、その携帯電話に手を伸ばそうと思ったのは、本当にただの気まぐれだ。光っているから、手に取った。
のそりと起き上がって、端末を手にする。とっくに唸り終えたそれの、ポップアップ画面に表示されるメッセージが目に入った。
『伏黒恵:体調、大丈夫ですか。今日は午後、津美紀の見舞いに行きます』
 五条は、何の変哲もないその文字列を、ただ黙って見つめた。画面が暗くなったので、とん、とんと操作をして、その文章を、また呆然と見つめた。
 どれだけの時間が経ったのか、手のひらの機械をぎゅっと握って、そうして久々に、五条は顔を上げたのだった。

◆◇◆

「恵、あのさ」
 五条がそう切り出してきたのは、二月の始め、一緒に津美紀の病室を訪れたときだった。その時俺は、津美紀の眠るベッドサイドで、病院に持ってきている彼女の衣類の確認をしていたので、話しかけてきた五条さんに反応するのがほんの少し、遅れた。
「すみません、何ですか」
 俺が顔を上げた直後、その一瞬だけ彼は、口を引き結んで、硬い表情をしていた。ような気がした。サングラスに隠れた目元は見えない。
 しかし、すぐさまその緊張はほどけ、いつもの飄々とした態度に戻って、彼はこう続けた。
「……来月、一緒に沖縄に来てくれない?」

◆◇◆

 そういや、あの時から五条さんちょっと変だった。伏黒恵は、車外の景色を見遣りながらそんなことを思った。殺風景な米軍基地は、いくら後ろへと見送っても切れることがない。
 五条が運転する車は、案外居心地が良い。伏黒は助手席のシートに体を預けたが、しかし警戒を怠ることはなかった。何せ、任務が任務なのだ。――地元の放送局のラジオが、午後三時を告げる。

◆◇◆

 見舞いの帰り、呪術高専の送迎車の中で、伏黒は簡単な説明を受けた。沖縄の呪術高専支部へ挨拶に行くので、護衛を頼みたいとの話だった。
「何で『五条悟』の護衛役が俺なんですか。もっと強い人いますよね」
「先日昇格を果たした伏黒恵二級術師は、十分お強いでしょ」
 笑いを含んだ口調にカチンと来る。強いなんて、露ほども思ってないくせに。この一年ほど、五条に忙しい合間を縫って見てもらう稽古では、終始伸されっぱなしだった。
「特級術師を護衛するには俺じゃ役不足だって言ってるんです」
「書類上『護衛』なんて物騒な文言ついてるけど、大したことしないから。沖縄ついてきてくれるだけでいいの」
「それなら補助監督の人でもいいでしょ」
「書類の都合上、どうしても二級以上の術師に来てほしくてさ。日程は空いてるんでしょ」
「空いてますけど……」
 任務日として提示されたのは、卒業式のあと、入学の前、春休みの二日間。日にちに問題はないけれど、伏黒は渋った。同伴者に二級以上の術師が必要だって? どうにも引っかかる。
 すると五条は、ちらりと運転席の伊地知を気にかけたかと思うと、とんでもないことを言い放った。
「僕、日本国政府の要請で、米軍基地付近での術式使用が制限されてんのね」
 伏黒は思わず息を飲んだ。五条は平然とした様子だ。
「緊急の場合は別だけど、とにかく建前上は、僕には術式使用原則禁止の命が出ている。横須賀だとか、沖縄では僕は術式を使えない。だから、万一の襲撃に備えて、二級以上の術師の帯同をお願いしてるの。一緒に来てもらう人は術式使っていいから」
「……初耳です」
「言ってないからね。知ってるの、僕、伊地知、夜蛾学長と、それと我が国の防衛大臣と内閣総理大臣閣下、くらいだったかな」
 国家機密ってことじゃないか。重いため息が伏黒の口から漏れた。
「だからこの話、あんまり他の人に言っちゃだめだよ?」
「言いませんよ……」
「僕らだけの秘密ね」
 師匠は、いたずらっ子のような無邪気さを以て笑う。
「呪術師に『緊急の場合』なんて付き物だし、いざって時は僕が術式使ってもどうとでもなる――伊地知がどうにかする――からさ。一緒に来てくれない?」
 こんな機密事項を開示されておいて、いち術師が易々断れるわけないだろう。伏黒はもう一度、重いため息を吐いた。暗にこれは、了解の意思表示であった。
「決まりね。そういうことだから、伊地知、手続きしておいて」
 かしこまりました、と伊地知の返答を以て、話は解決してしまった。フロントガラスに、遠くの白い飛行機雲が一筋。

 一泊二日の遠方任務。特級の五条がわざわざ、術式使用制限のリスクを負ってまで出向くのだからよっぽど重大な案件なのかと伏黒は身構えていたが、二週間前に詳細なスケジュールを渡されて、肩透かしを食らった。沖縄にある呪術高専支部への挨拶。以上。それ以外の時間は自由行動。
「自由行動、って。修学旅行じゃあるまいし」
「拗ねないの、恵」
 呆れを隠しもしない伏黒に、五条は苦笑する。わざわざこの人を駆り出さねばならないほどだ、先方がよっぽど権威ある人間なのかと疑ったが、そうではないという。伊地知曰く、東京校の補助監督とさほど変わらない、普通の職員らしい。
「例年補助監督が出向いていますが、今回は五条さんが、ということで」
 五条さん、忙しいのに。上層部の嫌がらせか?
 納得いかないこと尽くしだったが(その上、「今回は跋除の任務ではないため、補助監督も同行しない」とのお達しである)、伏黒はあれよあれよと言う間に飛行機に乗せられ、初めて沖縄の地を踏む運びとなった。那覇空港の外に出た途端に、ほのかに潮の香り。
 支部への挨拶は午前中にあっさりと終わってしまった。伊地知に任務完了の旨を電話すると、予定通り今日は一泊して、明日夜の飛行機で帰ってこいと言う。
「美ら海水族館行こうよ」
「は」
「恵も飛行機の中でガイドブック読んでたじゃん。いこいこ!」
 昼食のために寄ったブルーシールで、予定は決まってしまった。そんなわけで一行は、呪術服からアロハシャツとチノパンに装いを変えたのち、現在本部町へと車を飛ばしている。ツードアの小さなレンタカー。護衛付きの人間が乗るにはあまりに頼りない車だった。補助監督も案内人もいないため、運転は五条の担当だ。五条がハンドルを握るところなど伏黒は見たことが無かったため、安全を非常に懸念していたが、意外にも彼は運転し慣れていた。十四のときから実家で乗り回してたからね。犯罪じゃねぇか。

 走行中、左手に、海。今日の沖縄の天気は晴れ。雲もよく出ている。三月でありながら太陽光線はかなり強い。深いエメラルドグリーンに、白い波がよく映える。
「僕がね、頼んだの」
 五条がおもむろに口を開いた。
「え?」
「二人だけで行きたいって。補助監督もいらないって言ったの」
 そういや車に乗ってから随分長い間、五条さん何にも喋ってなかった。ラジオに耳を傾けていた伏黒は、ぼんやりそんなことを思った。
「恵、今年の修学旅行行かなかったろ」
 五条は、伏黒が長らく黙っていた秘密を、静かに暴いた。責めている口調ではなかったけれど、伏黒は少しだけばつが悪かった。
「どうして知ってるんですか」
「バスケ部の島田から聞いた」
「なんで知り合ってんだよ……」
「三者面談の時にたまたま会った。恵いないときに」
 半開にしている窓から、浜に打ち寄せる波の音。
「君のことだから、津美紀のことが頭にあったんだろうけど。自分だけ楽しい気持ちになっちゃいけないって思った?」
 図星で、押し黙ってしまう。五条は、伏黒が無言を貫く甘えを、彼にしては珍しく、許容した。
「そう思うのは勝手だけどさ。恵が旅行行かないからって、津美紀は全然嬉しくないからね。怒って泣いちゃうかも」
「泣くわけない」
「泣くよ。津美紀は、自分のせいで恵が楽しいことできなかったって言ったら、絶対悲しむ」
 そうだろうか。俺が喧嘩したと知るやいなや、手に持っていた飲料投げつけてきた暴力姉貴だぞ。泣くわけない。あの姉貴が。
 あの優しい姉が。
「ね、津美紀が起きた時に、たくさん面白い話できた方がいいって。だから連れてきたんだ。『任務』って口実があった方が、恵は来やすいでしょ」
 いつの間にか、車は海洋博公園に到着していた。車を停めて駐車場から出ると、子ども連れとカップルで賑わっている。得体の知れない白髪の美丈夫と、中学生の俺という珍妙な二人組は、明らかに場の雰囲気から浮いていた。いつものことではあるが。
「だから、護衛とか考えずに、今日明日は楽しく旅行してほしいんだ。高専に入る前、最後の旅行だし……あ、上着持った? 館内寒いかも」
「五条さんの分までちゃんと持ってきてますよ」
「ありがと。入る時にナマコとヒトデ、触ろうね♡」
 五条さんははしゃいでいる様子だ。少なくともそう見えた。それは間違いではないのだろうけど、伏黒がこの旅路に感じている違和感は、どうにも頭の片隅から拭えないままだ。

 五条に手を引かれて水族館に入る。珊瑚を眺め、熱帯魚を追い、先に沈黙を破ったのは伏黒だった。
「五条さんって、水族館嫌いじゃなかったんですか」
 黒潮の海。眼前、広い水槽を、大きなジンベイザメが悠々と泳いでいる。圧巻だった。
「何でそう思った?」
「前に、アンタ自身がそう言ってた」
「そうだっけ」
 五条は水槽から目を離さない。一切の光を遮光する特殊なサングラス越しには、この真っ青な世界はどう見えているのだろう。
「それこそ、俺ら三人で美ら海水族館のテレビ番組見てるときでしたよ。五条さんが熱心に見てたから、津美紀が『ここ行きたいんですか』って訊いたら、五条さんは『嫌なこと思い出した』とかって。昔付き合ってた彼女に、水族館でデート中にフラれたって。だから水族館全般嫌いだって聞きました」
「言ったっけねぇ、そんなこと」
 五条はくつくつと笑う。言っていた。伏黒はこのことをよく覚えていた。伏黒姉弟は五条に色んな行楽地に連れて行ってもらったけれど、この一件があったので、五条とともに水族館に来たことはなかったのだ。津美紀と二人でお出かけの候補地を相談する際、水族館の名が上がるたびに、「そういえば悟くんは嫌いだったっけ」とわざわざ外していたくらいだ。
「だから、ここに来ようって昼間言われたとき、俺結構びっくりしたんです」
 伏黒は、感じていた違和感を紐解き始める。
「五条さんが、俺が行かなかった修学旅行の埋め合わせをしてくれようとしてるのは、多分嘘じゃない。でも、この任務の話したときから、それからここ沖縄に来てから、アンタずっと変です」
「そう?」
「熱でもあるのかと思ったけどそうじゃねぇし」
「どこが変?」
 五条は目線を水槽から恵へと移した。柔らかい表情だったけど、目元は笑っていなかった。
「ずっと静かなんですよ、五条さん。普段よりずっと、口数少ないです」
 アロハシャツにチノパン。目の前に立つ男は、笑ってしまうくらいに浮かれた観光客の装いだ。なのに、ずっと纏っている空気がどこか異質だった。そう、あのときのような。冬、抱きしめられたときのような、張り詰めた空気。
「五条さんが俺と沖縄に来た理由って、何なんです」
 そのまま、伏黒と五条は、大水槽の前をしばらく離れなかった。興奮した子どもらの声が高く響く。マンタやジンベイザメは空を舞う。何も、言わない。

◆◇◆

 眠れなかった。波音が高かったからだ。恵が穏やかに寝息を立てているのを見計らって、僕は一人、部屋を抜け出た。既に照明を落として暗いフロントを抜ける。どうせ眠れない。辺りを散策して気を紛らそうと思った。
 いつごろからか、海辺での宿泊が苦手になった。夜、眠ろうとすると、絶え間ない潮騒を耳が過敏に拾ってしまう。目が冴えて、大抵一晩眠らずに夜が明けるのが常だった。
 チェックインを済ませ、予約したスイートに入室した瞬間、しくったなと思った。夕暮れ、見渡す限り絶景のオーシャンビュー。ホテルからビーチまで徒歩三分だという。ろくに調べもせずに、慌てて沖縄の最高級リゾートなんて押さえたからだ。珍しく恵が、「スゲェ……」と感動していたので、その点は良かったけれど。
 浜に出る。夜の十時過ぎとあっては、さすがにビーチに人影もない。
 傑が離反して以降、ここ沖縄の地を踏むのは初めてだった。沖縄に来る理由が無かったからだ。
 沖縄・奄美地方は呪術師ではなく「ユタ」による独自の呪術体系が確立しているため、内地の呪術師が出動する機会はめったに無い。呪術高専はここに支部を置いていて、連携は緩く取っているが、この地の実質の呪術的統率者は古来、「彼ら」だ。沖縄発の要請で高専の特級術師が出動したことは、今までに一例もない。ユタの呪術的な実力が高い、ということもあるが、今までの歴史の中で、散々土足で自分たちの土地を荒らしていった大和の人間を根本の部分で信用していない、そういった点は少なからずあるだろうと推測している。
 さく、さく、と砂を踏む。沖から吹きつける潮風で、昼間よりも少し肌寒かった。黒々とした海面に、真っ白の月の道。もうすぐ満月であった。

 恵に、伝えられていない話がある。

 僕が伏黒甚爾を殺したこと。
 そして津美紀に、恐らく助かる見込みがないこと。

 いつかは彼が知らなければいけない話だった。だけれど、言う勇気が出なかった。
 伏黒甚爾の話は、初めて出会ったときに言いそびれて、それからずるずると言い出す機会を失った。恵の術式は十種だ。何としてでも「仲間」に引き込みたかったので、僕は慎重に恵の目と耳をふさいできた。禪院家との接触は最小限に。慶長の話も最近まで伝えなかったくらいだ。父親の話についても箝口令を敷いて、そうして、恵が僕を信頼している現状がある。かわいい反抗期こそあったけれど、今、恵は二級にまで昇進して、呪術師への道を着実に歩んでいる。その事実こそが、信頼の証左と言えるだろう。沈黙の上に積み重なった、ジェンガのような信頼。

 そして去年、津美紀が倒れた。

 あの日、恵から電話をもらうなり、埼玉のアパートに直行した時のことを、覚えている。玄関扉を乱暴に開けた途端に、真っ白な顔に脂汗を浮かべた恵が、僕の腕を鷲掴んで縋ってきた、あの時のこと。喉から声を絞り出すのもやっとの様子だった。つみきが、……。三人でお誕生日会をしたあの小さな部屋の中央に、津美紀が横たわっていた。額に邪悪な呪印を浮かべて。
 似たような状態の人間がいることは、知っていた。そしてその一部は、どうやら強力な呪物にその身を侵されているということ、呪術師ではない一般人には呪力への耐性がないため、強力な呪物を摂取した瞬間に「死ぬ」こと、僕はわかっていた。
 津美紀の体が、とっくに呪物に蝕まれていて、彼女は「死んでいる」こと。僕は、わかっていた。

 そして、恵に言わなかった。

 伏黒甚爾の話を伝えたら、恵は僕に対する信頼を失って、僕から離れて行ってしまうと思ったから。
 津美紀の話を伝えたら、彼女を守るという目的を失った恵が、呪術師をやめてしまうと思ったから。
 父親も津美紀も、ジェンガの最下層、土台のブロックだった。この部分を失ったら、信頼が崩れるどころでは済まない。恵は廃人になる。明らかだった。

 言うべきだった。僕から言わなければいけない話だ。呪術高専に入学する前。話すとしたら、そのタイミングしかない。彼が本格的に呪術師になってしまう前に。恵と二人きりで話せる場を探していたところに、補助監督の出張任務の話を聞いた。強引に任務を僕のものにして、そういう経緯で沖縄を訪れたのだった。
 空港で、言わなくちゃと思った。
 車の中で、口を開きかけた。
 水族館で、告白しようとした。
 そうして床に就く前に、「あのさ、」と僕が声をかけたら、彼はこう言うのだった。
「どうしましたか。明日の予定? 国際通りに行きたいって。はあ、それはいいんですけど、津美紀に土産買いたいんで、ガラス工房寄りたくて。ここか、ここの。近くにカフェあるみたいですし、もし五条さんが良ければ行きませんか」
 僕は、この子を失いたくなかった。恵に、僕を置いて行かないでほしかった。だから、言えなかった。

「五条さん!」
 後ろから、ざくざくと砂浜を駆ける音。恵だった。
「何も言わずに出て行かないでください。仮にも今日は護衛されてる身なんですから」
 恵は不機嫌だった。僕の不在に気付いて、眠たい体に鞭打って走って来たのだろう。僕の愛弟子。
「ごめん。ちょっと眠れなかったから、散歩してた」
「眠れない? 大丈夫ですか。っていうか、裸眼……」
「楽しくて興奮してるのかも。気にしないで。サングラスは無くても今は大丈夫。人いないし」
 不機嫌だったのに、僕が「眠れない」なんて言った瞬間に心配する。僕は恵のそういうところが、好きだった。
 寒くないですか。恵は上着を手にしていた。僕の分と恵の分、合わせて二枚分。
「恵もお散歩するの」
「五条さん、寝れないんでしょ。一緒に歩きます。二級術師の帯同が必要なんだろ」

 今、言うべきだ。本能的にそう思った。本当に最後のチャンスだった。

 ねえ、恵。
 僕が。
 君のお父さんを。

「恵、」

 殺した。

「四月になったら、五条『さん』じゃなくて、五条『先生』に――呼び方、変えなきゃね」
 一緒に歩くことになった。いずれ、最強を打ち倒すほどに強くなる呪術師と。僕が殺した人間の息子と。ただ姉を守りたかっただけの、少年と。
「昔、親友と沖縄に来たことがあるんだ。あんまり楽しかったから、恵とも一緒に来たくなったの」
 ゆっくり、ゆっくり進んだ。恵は何も知らなかったから、僕の隣を歩いてくれた。
「恵。高専でさ、いっぱい青春、するんだよ」
 海岸線に、歩幅の違うサンダルの足跡が二列できて、やがて、潮が満ちて全て消えていった。

◆◇◆

「そういや、南十字座は見えなかったねぇ」
 夜、帰りの飛行機に時間ギリギリに乗り込み、シートベルトを着用する段になって、五条は少し残念そうに窓の外を見た。春の宵、徐々に暗くなっていく滑走路を、色とりどりの灯火が飾っている。
「そんな星座ありましたっけ」
「ヤダ恵チャン、昔アタシと観たプラネタリウム忘れちゃったの」
「家で見たやつですか」
「津美紀が教えてくれたじゃん。南半球でしか見えないけど、日本では一時期、沖縄でだけ見れるんだよって」
 そうだったろうか。瞼の裏に、懐かしい記憶を思い起こす。サンタさんが――五条さんが買ってくれたプラネタリウムを、三人で一晩中眺めてはしゃいだ、あの冬。
「そしたら、また沖縄、来ましょう。今度は津美紀も一緒に」
 五条さんは、そうだね、と頷いてくれた。

――皆様、離陸いたします。シートベルトの着用を、もう一度お確かめください。
 飛行機は今、飛翔せんとする巨大な鳥だった。唸り声を上げ、急加速する。轟音、そして離陸。沖縄本島、街の灯は既に遥か遠く厚い雲の下、この鉄の鳥は、羽田まで一五五〇キロという長距離を、たった二時間半で翔けるという……。

(終)