「僕は君を好きにならない」
空き教室の静謐に、五条悟の声はよく響いた。4月の中旬、桜が散って、筵山の木々が若葉を付け始める頃合いだ。晴天の下で校内の敷地で体術の訓練を終えた後、午後3時半にしては、北向きのここは少々冷える。
五条が職員寮に戻る直前に、伏黒恵は彼を廊下で呼び止めた。好きです。恵が積年の思いを口にしたところ、目の前の長身は僅かばかりの間、身を硬くして、そうしてすぐ近くにあったこの部屋に、教え子を案内した。
予想通りの答えだった。他の生徒に教え諭すときと同様柔らかい口調だったが、有無を言わせない厳しさが、恵の胸を刺す。口元だけは微笑みを浮かべているが、珍しく彼は困っているようだった。
「確かに僕はグッドルッキングガイだし何でもできるし、最強だし。惚れちゃうのも同情するけどさ。でも君が僕を選ぶのは、ねえ」
「駄目だって言うんですか」
少年が食ってかかると、教師は小さく苦笑する。
「座学ではいい成績取るくせに、こういうことはわからないの」
わかりません、と恵は叫んだつもりだ。実際には陰気な低い声が口から漏れ出るばかりだった。わかりません。心の中で、わかりたくなんかない、と思った。
「だって、そんなの青春じゃないもの」
「恋愛は青春じゃないって言うんですか」
「君は師匠に対する憧憬を恋愛とすり替えてる」
「そんなこと、」
「すり替えてるよ」
五条は頑なだ。続けて恵に、席に座るように促したが、若人は首を振って聞かなかった。子どもを宥めるような態度が気にくわなかったらしい。八の字眉の五条は、机に軽く腰掛ける。
「保護者に対する愛情なんてのは、そんなの、恋じゃない。ただの勘違いだ」
「そんなわけない。俺の思いを勝手に決めつけないでください」
「いや、決めつけるね」
「勘違いだから、諦めろっていうんですか」
「そう、君の思いは若さゆえのまやかし。だから考え直しな。そんなものに囚われてちゃだめだって。告白は聞かなかったことにしてあげるから」
「……何度考え直したって、俺は五条先生のことを好きになります」
「恵」
「もう、五条さんの背中が、目に焼き付いてるんです。ガキの頃からずっと見てきた」
恵の、今までずっと握っていた拳に、自然と力が入った。爪が皮膚に食い込む感触は、確かな痛みを訴える。五条は、恵の顔をじっと見て、暫し俯いてから、言葉を紡ぐ。
「普通さ、小さいころから面倒を見てきた子どもを、大人は好きにはならないんだよ」
「わかっています」
「まして君と僕は、教師と生徒だ。13歳も年が違う」
「……わかっています」
「僕の今まで付き合ってきた人、みんな女の子なの」
「、知っています」
「僕は五条家の次期当主で、子を成して次世代に呪術を継ぐ義務がある」
「――……」
残酷な事実で、当たり前の話だった。
「僕はね、恵のこと、そういう意味で『好き』にはならない」
教え諭されていた。僕は大人で、お前は子ども。お前は恋愛対象ではない。僕には女性と添い遂げなければならない、のっぴきならない事情がある。お前は眼中にない。眼中に入れない。
告白を断るにはこれ以上ない、完璧な理由。反論の余地は一切無かった。
「恵、……泣かないで」
五条は武骨な手を、涙の伝う恵の頬へと伸ばしかけた。いつだってその掌が温かいことを、恵はよく知っていた。幼いころからずっと頼ってきた手だ。
「触るな!」
だが今は、その温もりをぴしゃりと拒絶した。空中で静止した五条の手は、行き場を失って力なく下ろされる。
「俺のことが好きじゃないなら、」
声は震えた。
「優しくしないでください」
「……そんな、」
「俺の涙を拭ったり、稽古が終えたときに頭を撫でたり、俺が苦しいときにずっとそばで付きっきりになったり、……俺を目一杯抱き締めたり、…………うなじに口づけをしたり」
「……」
「そういうことを、しないでください」
「生徒みんなにしていることだよ」
「嘘だ」
「君が言ったのは、……僕にとっての、ただの親愛の表現だ」
「嘘だ!」
「恵、」
――恵。
恵の言葉の束縛を解いて、五条は恵を、静かに抱きしめた。
胸の辺りがじわりと温かいのは、恵が流す涙のせいだ。わかっていた、自分に彼の涙を拭う資格はない。彼の前に立つただの壁に成り下がるしかなかった。壁が最後の涙の一滴までを吸い取って、それで彼が諦めてくれるなら、それでいいと五条は思っている。
「恵には、青春を謳歌してほしいんだよ。顔突き合わせて9年目の保護者に、恋だなんて、そんな馬鹿なことしてるなよ。15歳の貴重な時間をそんなことに割いてる暇、ないでしょ?」
彼の頭を撫でた。文字通り血のにじむような修行を経てようやくたどり着いた呪術高専で、彼にはせめて年相応の幸せを享受してほしかった。本心だ。勉学に励み、呪術の鍛錬に打ち込み、一生信頼できる友達を作って、そして甘酸っぱい恋愛を経験することだって、きっと彼の人生の糧になる。先輩の、ちょっとかわいい窓の子と付き合ったり、一緒に映画館でデートをしちゃったりして、そういう青春を過ごしてくれたら。そう願っていたのに。
昔から、恵が必死に自分の後を追いかけてくるひたむきな姿勢が、好ましかった。物事を教えれば教えるだけ吸収していくので、埼玉のボロアパートに赴く足取りは日を経るごとに軽くなっていった。嬉しかった。
泣き顔を見せるのを嫌う子どもだった。初めての呪霊討伐の時、放り込んだ帳の中から、全てを終えて出てきた彼の目元は真っ赤に腫れていた。涙を全て吸い取ったらしい袖口が、湿っていた。泥だらけの満身創痍。僕が一言、「頑張ったね」と、その小さい体を抱きしめると、恵も、おそるおそる僕の背中に手をまわしてくれた。
あの時から、ずっと。
五条は、この心の奥の気持ちに、嘘をつき続けている。
大切な子どもなんだ。呪術界を改革するための、大事な生徒の一人。十種の子、自分を殺せる術式の使い手。彼が豆粒のように小さかったころから世話を焼いてきた。正しい箸の持ち方から呪術の高等技術まで、全て僕が教えた。
「男が好きにしてもさ、もうちょっと見る目養いなって。僕以外にも、良い人、いっぱいいるよ」
もう一度、彼の頭を撫でる。手付きに込めたのは慈愛だ。決して、性愛なんかじゃない。性愛で、あってはならなかった。
「ちくしょう」
恵は、五条の服の胸元を掴んで、しわくちゃにした。五条はじっとそれを受容した。その様子にすら、腹が立った。
五条が恵を好きなことなぞ、恵はとっくに知っていた。
それでも、五条悟が、彼の背負う様々な役割によって、自分を決して選ばない、いや選べない状況にあることも、十分にわかっていた。どこまで行っても、自分は禪院家に連なる子どもで、特別な術式を持つ呪術師で、男だった。
悔しかった。彼が、自分を選ばない理由としてつまらない建前を並べるしかない現状に、自分がまだ彼の庇護の対象にあることに、自分が弱い人間であることに。己を選べと、そう彼に胸を張って迫ることができないことが、忌々しかった。俺たち二人がともに歩むことが不可能だと、五条さんに突き付けさせて、不可能な現実に地団駄を踏んで、癇癪を起こして泣いて。みっともなかった。ただただ、自分が情けなかった。
「こんな青春、くそくらえだ、ちくしょう」
未だ涙は、止まる気配を見せない。泣いたって何も変えられない、でも、ここにいる不器用な二者は、どちらもそんなものを止める術を知らずに今日まで来てしまった。
二人の心臓を深々と突き刺す痛みを、愛と呼ばずして何と呼ぼう。それでも、二人は限りなく近い平行線を、永遠に辿る運命の上にあると信じ込んだまま。
窓の外で、新緑がざわざわと風に揺れている。まだ初夏にはもう少し、遠い。
(終)